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2001年03月のセビリア発信・つれづれ草
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●2001年03月29日(木)

【ラッタタ、ラッタタ、ラッタタ....】


ご免!昨日はくたびれ果てて眠ってしまった。

衣装はどうだったんですか?気に入りましたか?というメールがいっぱい来てしまった。
決めかねるので当日の舞台照明の下で見て決めようと思っている。本当はきっとこっちだろうな、とわかっているのだ。

舞台経験上、絶対の効果というのは決まっている。
色とか柄は一目見ると、照明下の効果は私にはもうわかる。
なんだか2倍の衣装を持って行くまでもないのだけれど、私はいつも間際に気が変わっても大丈夫なようにしておくのが好きなのだ。
バタデコーラは会心の作のが二つ上がってきて、どちらも既製のマントンで合う色がなかったので染めてもらった。長い付き合いなのでマントン屋も衣装屋も、みんな気持ちよく立派な仕事をしてくれる。こういうところが私をスペインで居心地よくしてくれる要素の一つだ。
衣装もマントンも、もう取りに行く暇がない、と言えば自宅まで届けてくれるという甘やかされ方だ。

 昨日が最終リハだったので、メンバーにPCをセットして私のHPを直に出して見せてあげた。ゲストブックのプロフェの回答や、観光案内のボランティアの書き込みを解説してあげたりしたのだ。みんなとても喜んでいた。
 舞台の前はあちこち遊びに行かないでちゃんと休養するのよ!と言ってもいい加減な返事ばかりしてあやしいのだ。修学旅行の中学生みたいにあやしい軍団だ。
朝起きて、寝不足みたいな顔していたら承知しないぞ、とすごんでもどこ吹く風だ。

昨日、突然ドランテが「アンコールが来たら何やる?」と言い出した。
ビオラのラフアエルが、いや、日本人はきっとアンコールの習慣がないよ!という。
そう?どうして?ないの?
次々に聞かれて困ってしまった。うーーーんと、どうだったっけ....
スペインや他の国みたいに観客がピーピー口笛だ、足踏み鳴らして大喝采、デモ、春闘、という情熱でアンコールをねだる事はないように思う。絶対にないとは言えない。ブルーノートの時はほぼ毎晩ものすごいアンコールだったのだ。でも、ジャズフアンは、そういう点であまり素人ではないから。
えー!?アンコールしないの?と不服そうにみんなが言う。
うーん、うーん...あったとしてもね、日本人は体力ないから拍手は続かないのよ。すぐに終わっちゃうんだから。
どうしようかな、出て行こうかな、と思っているうちに止んでしまったりするのだ。
へー!どうして?体力と関係あるの?
スペイン人は一般人でもパルマがうまくてよくできるから、この調子で大喝采するのだ。言うなれば劇場全員がフラメンコのパルメーロでうずまっている感じ。だからものすごい拍手の渦巻きになる。
何を隠そう、長い修行の後に初の日本公演をした時に、あまりの拍手の違いに私は愕然としたのだ。

誰か、いい機会だからドランテがソロとソロの合間で止まった時に腹式呼吸の大声でバモハジャ!ダビー!とかオーレ!ドランテ!!なんて言って見たらいいのに。絶対に演奏に力が入る。アーティストにとって声がかかると言う事はとても励みになるのだから。みんなもせっかく修行しているのだし、勇気出してやるべきね。まちがって声が黄色くたっていいって。誰かと誰かと掛け声が重なってもかまわないんだから是非やってみてはどう?誰の迷惑にもならない。アーティストにとって全プログラムで1度も声がかからないという事ほどやりにくい事はないのよ。

 そうして、もしも私達がみんなの期待に応えられたらアンコールしてみて。
拍手はね、たいていセビジャーナのリズムに落ちつくのよ。ラッタタ、ラッタタ、ラッタタとやるとただの「ぱちぱち」より長く続くし、くたびれない。1度引っ込んだアーティストが出て来るまでこうやってセビジャーナパルマで催促するわけ。てこでも動かないぞ、という感じで。これがつまり生演奏の素晴らしさだし、舞台の良さなのです。
ドランテはすごく熱血のアーティストだし、プログラムの最後にかかってくると血が燃えてとても素晴らしいから、1度も声がかからない、アンコールもしない、となると驚いてしまうかもしれない。
私はアーティストの立場としては、自分の出る公演についてこういう事を言うのははばかられるけれど、みんなの教師としては教えておくべきだな、と思うの。舞台というのは生き物だから、お客はその気持ちを何らかの形で舞台に伝えないといけない。受けるだけではないのよ。つまりお客の側からの何らかの投球がないと、絶対に舞台は生き生きとして来ないのです。

 アンコール、準備していない。
ラッタタが来るかどうかにかかっています。
来たら本当にみんなでびっくりして楽しいかも。
それにスペインと同じパルマが響いたら、メンバーが「うっそだろう!恐れ入りました―!」になっておかしい!!

●2001年03月27日(火)

【集中レッスン今昔物語】


この所つれづれの方にご無沙汰している。こちらはパスワードを入力したりして手間がかかるのでゲストブックに書いてしまう。よって最近はゲストより私の書き込みでいっぱいだ。
 集中レッスンは回を重ねるごとに色々反省させられたり、おや!そうだったのかぁ...という事がまだまだある。
 実は、今でも忘れられない極めつけの失敗談があるのだ。
書く前から笑ってしまう。
 昔は集中に出る人は随分やっている人や、教えている人ばかりだったのが、ある年から急に初中級レベルの人が沢山申し込み始めた。その第一回目の時に大失敗をしでかしたのだ。

 まだ日本人の無表情、無口に慣れない頃の事で、参加者が何を振り付けても気難しい顔をしてもくもくとやっているので、どんな振りも全然気に入らないのかな、と思ってじゃんじゃんエスカレートさせてしまったのだ。つまり、もつとかっこいいやつ、もっと効果のある振り、もっとすごいの.....でもみんなが益々気難しく、暗い雰囲気になって行くだけで、私はすっかり困惑してしまったのだった。何をやっても喜ばない、はて、どうしたものか....

 くくく...翌日、このクラスの過半数どころか、ほぼ全員が「クラスにとてもついて行けない。見たこともない難しさだ」と言って全滅してしまったのだ。

まるで別の民族みたいに私は驚いたのだった。
みんなの表情が読めなかったのだ。
なあんだ、気に入らない訳じゃなかったのか!びっくりしてたのね!
ふーーーむ、とてもそうは見えなかったな...。
つまらなさそうだったから、どんどん取っておきの振りを放出して、結論として参加者を追い詰めてしまったのだ。

あの時の人は私の事をどう思っているかしら。

日本という国のフラメンコ事情に精通するまでは、私は随分失敗したのだ。
先生に何か言ったりする事に慣れていないから、心の中でどんどん内向してしまう練習生が多い事に、今なら気づく。
なんでも言って!じゃんじゃん質問して!なんでも教えてあげるに決まっているじゃない!!...それでも本当かどうか判断しかねて遠慮している人が今でも結構いるのだ。
そんな、傷ついた子犬みたいにしていないで、何でも言ってごらんなさいな、よ。
その振りでなくってさっきのがいい、とか、もっと簡単なの、もっと難しくしてくださーい。はっきり言って欲しいのだ。時間中にね。終わってからもぞもぞしても遅い。一番かなわないのは、フアックスで「実は私はもっとこういうつもりで....」みたいなの。こういう例はここ三年くらいは見ないけど、昔は居たのだ。終わってからではだめよ。クラス中にリクエストしないと。生意気かなと思われる事を恐れてはいけない。言った人の勝ちだ。明るく素直にしていれば、何でもその善意によって許されるのだ。あんまりうるさかったら、ちゃんとそう言うから心配しなくていいのだ。えー!?うるさいって言われちゃうのぉ?じゃ、やめとこうって?大丈夫だってば、ちゃんと優しく言うから。(気のせいか、内部生の反論が聞こえる気がする....)

●2001年03月22日(木)

【無法者達の午後】


 昨日ドランテが来て、うちのスタジオが気に入ってしまったし、私のピアノが十分役に立つというので、全員のリハはうちでやろうと言う事になった。
嬉しくなってしまった。あの、クラビノーバが役に立った!(私のエッセイ集「エリーゼのために」に出て来るピアノだ)これ、日本から持ってきたの?...みんなが感心していた。

僕も日本で楽器買いたい!誰か君の生徒さん、一緒に行ってくれない?
会う度にせがまれるのだ。
秋葉か新宿にかっこうの楽器店ないかしら?
誰か案内してもいいという親切な人、いない?エレクトロ関係の楽器が欲しい人と、和太鼓とか和風の打楽器関係を見てみたいアルバロ・ガリードなど二手くらいに分かれる。
誰か名乗りをあげてくれると助かるのだけど。(本当によ)

 さて、わき道にそれてしまったが、リハをやるのにドランテのスタジオだと私は床の問題もあるし、とてもやりにくい。うちに来てくれるに越した事はないのだ。やっぱりアーティストは考える事が同じで、みんな自宅にスタジオを作るのだ。それに時間を守らないアーティストの全員集合なんてとても時間貸しのスタジオなんかで気をもんでやれるものではないのだ。

 今日も案の定、一時間遅れだもの。

 出番待ちのアーティストは私達が練習している間、庭のブランコに揺られてのんびりくつろいでいたらしい。なんにつけてもビールが欲しい彼らの面倒なんて見ていられないので勝手にやって、と言っておいた。

あとで子供がまあるい目をして、ねえ...ママ!と言う。
「あの叔父さん達(お兄さんなのにね..)みんなでお台所に入って、およそのお家なのに冷蔵庫開けて、セルベッサいっぱい持ってお庭のブランコに乗っていた」.....笑ってしまった。
さぞ無法者に映った事だろう。
小さな女の子って、大概あのくらいの年恰好の男性が好きではない。なんだか大きくて、うさんくさくって、嫌だと思うみたいだ。ハハハ...みんなも覚えがない?

 けれども演奏が始まると、とことこ降りて来てしっかり見ているのだ。
子供達は、夫の録音スタジオにもうんと小さい頃から出入りしているし、私の稽古やリハーサルもいつも見ているので、耳と目は子供ながらもとても鋭かったりする。
 こういう環境に育つとアーティストになるならとても楽だ。でも、二人とも踊り手には多分ならないと思う。なぜなら「なりたい」と言ったら、その母親がかなりの情熱を込めて思いとどまらせるからだ。ねぇ、趣味だけにしてらっしゃいよね、と。
一家に踊り手は一人で沢山だ。一人でも多すぎるくらいだ、と言ったのは先頃知り合った元マーサ・グラハムスクールの校長の言葉だ。...ほんとにねぇ、苦笑と共に同感してしまう私なのだ。

●2001年03月21日(水)

【ひとりぼっちの授賞式】


 ここ数日、浮かない気持ちで過ごしていたが、昨日、大変な事があった。

 実はこの間のコンサートで共演してからドランテの様子がおかしくなった。
あの日は最高だったのだ。割れるような拍手と観客のアンコールを迫る大騒ぎと、劇場の外で私達を待っていて声援を送ってくれる素晴らしい夜だったから、みんなとても気分良く楽しい夜だった。翌日もみんな仲良し。...ところがその次ぎの日あたりから、ドランテが急に深刻な様子で、私の踊りをビデオに撮影して見て見ないといけない、などと言い出したのだ。私が何をやっているのかちゃんと自分の目で見てみないと心配だ、と言うのだ。何が、どう心配だと言うのか...おかしい。こんな事聞いた事もない。共演者が、コンサートの大成功の後に沈み込むなんて。
いつもの穏やかな、感じのいい彼にしては、何か本心を言わないような重苦しいものが感じられて私を憂鬱にした。
私の実力は知っているのだし、知っているから自分の大切なコンサートに連れて行ったのだし、そこで大成功だったのだもの、何が不足だというのか...

ここで、まさか!と思う。信じられないみたいなことだけど、自分の栄光を共演者に少しでも持っていかれてしまうのを気にするアーティストがいるのだ。これほどの大スターなのだから、まさか、と思うような人でも、それは起こり得るのだ。大スターでも、超実力アーティストでも、その人柄や度量がその芸と同じ量とは限らないのだ。私は長い芸能生活で度々そういう人に出会っている。
...とにかく、他に考えの余地がなかったので、私はいよい打ちのめされてしまった。

「ビデオなんかに撮らなくったって、私があなたのために踊ってあげるわよ。うちのスタジオにいらして。あなたのライブ・テープで踊って見せるから椅子にかけて見て見たらどう?」
「うん、是非そうさせてもらうよ」
...たった一人でわざわざうちに来るというのだもの、そのただならぬドランテの気持ちをはかりかねて、私は益々憂鬱になった。それが昨日の午後の事だ。告白すると1000人の観客の前に立つより緊張してしまった。一人を相手に踊った事などない。それがまた、その曲の作曲者なのだもの。しかも何かを胸の底に隠した、私の共演者だ。

....で、踊ったのだ。スタジオのすみにドランテは座って。
踊り終わって、ドランテに近寄っても彼は立ち上がらないのだ。何か言っているんだけど声が小さくてよく聞こえない。
「どうかしらね?あなたが好きじゃないと言ってもこれが私の感じるままのこの曲のイメージだから、その..」
え?彼、なんかプータ・マドレだと言ってる!これ、すっごく悪い言葉。あんまり悪くてすごい言葉なので、逆に絶賛の時に使うのだ。ぼうっとしていると、

「びっくりして言葉がみつからないよ。僕のセンブランサを僕と同じ感受性でこんな風に踊ってくれる人がいるなんて。君の前にはスペイン国立バレエの振り付け師なんか赤面しないといけないね!いままでにこの曲を踊ってくれたどんな踊り手も誰も、君の振り付けにかなわない!僕は、お祝いを言わせてもらうよ。本当にありがとう。僕の作品をこんな風に立派に振り付けてくれて」

 実はこの後えんえんとドランテの賛辞が続いて私をいたたまれなくしたのだ。もうちょっとで泣いてしまいそうになった。小さい子供みたいに。

 ドランテの曲は、スペイン国立舞踊団が昨年彼を招いて踊っている。アイーダ・ゴメスとアントニオ・カナ―レスが振り付けているのだ。ジェルバ・ブエナとベレン・マジャ、ホセリート・フエルナンデスも、アントニオ・エル・ピパも共演している。

 何が心配だったのかというと、種明かしは簡単な事だった。つまり、ドランテは、演奏中は私が見えないのだ。部分的に顔を上げれば見えても、釘付けにして見ていられないから、全曲で何をしているかまだ、1度もまともに見ていなかった。
まして、一部の即興部分は、自分でさえ何をやるかわからないのに、私がその場で応えられるという証拠をちゃんと目で見たかったのだと言うのだ。
なんだ、そうだったのか!「あなたの曲は私には少しも難しくないのよ。だってね、私もあなたも本質は同じ種類の感受性なんだもの」...ちょっと、うぬぼれみたいかな、と思ったのだけど、彼は、うん、うん、とうなづいてくれた。
私は恥ずかしさと照れくささと、なんていうか自分の全舞踊人生がこんな思いがけないところで、こんな思いがけない人に全面的に肯定された事の感動で持ちこたえられなくなってしまった。
ましてあんなに心配した後なのだもの。
こんな時に限って、家に誰も居ないし、ひとりぼっちなのだ。
何時間もドランテと色々な話しに熱中して送り出した後、どっと疲れが出て、いつになくお酒なんか飲んでしまいました。
 ニューヨーク公演に連れて行く、と言う。おお、忘却のかなたの英語やんないと...。

 コンサートが間近に迫っているのだから、これについては書かない方が絶対に無難だと思ったのだけど、こんな大事件に遭っておきながら何食わぬそぶりでいられなかった。こんな極めつけのエピソードを書いてしまったら、みんなの期待をぎりぎりにまであおって、実際の舞台がかすんでしまう危険の方がはるかに高い。
実にまずくて間抜けなくらいだ。
多分私はノータリンで賢明さとは対極の人間なのだと確信する。
 でも、昨日の午後、作曲者の絶賛を浴びて、国民栄誉賞に輝いてしまったから、せめて私の生徒ぐらいには喜んでもらいたくて....

●2001年03月20日(火)

【晶子のものぐさ日記】


 衣装の仮縫いは本当に嫌だ。
 縫っている本人はもっと嫌かもしれない。
大抵仮縫いに行くと、もうそれ、放っておいて別のを作って欲しい、という事になる。
気に入らないのだ。
気に入らなくても勿論引き取る。けれども作っている人はがっかりする。
私もがっかりする。でも、曲に持っているイメージに合わないとどうしても着る事ができないのだ。大差ない、と言われてもダメなのだから仕方ない。
衣装は第二の皮膚だから、どんなに製作家が気の毒でもこればかりは譲れない。

昨日、衣装製作家から電話がかかっていい加減に仮縫いしてくれないと家中あなたの衣装で埋まってしまうと叱られてしまった。
始めに作ったバタデコーラが、ペドロ・ペーニャの声に合わないのだ。それでこの声にぴったりくるイメージのを又作らせている。
かれこれ何ヶ月も私の衣装で悩ませているので、仮縫いに行って試着のフアスナ―も上げないうちから、仕事中のお針子達が手を休めて口々に素晴らしい!まさにぴったりだ!とやいやいほめちぎるのだ。
おっかしいなぁ....怪しい呼吸だ。もう、又気に入らないといけないと思ってみんなして口裏を合わせているのだ、きっと。口先ロボトミーというところね。
 センブランサの衣装はまだできない。もしかしてこれが気に入らないと一巻の終わりだ。時間切れになってしまう。
かくして木曜にまた仮縫いに行かないといけない。面倒臭くて死にそうになる。私が世の中で一番苦手で苦しい事=仮縫いと美容院。
来週はもう荷造りしないといけない。苦手なのがもう一つあった。パッキングだ。衣装の事ならエキスパートなのに、その他の着るものになると絶対に季節に合った服装をパッキングできないで大失敗する。こちらはもうかなりの薄着だけれど、日本はどんな様子?まだコートが要るのかしら...?

●2001年03月19日(月)

【集中レッスン、待ち遠しいなぁぁぁぁぁ!】


ドランテ・グループのメンバーの紹介をしようかな、と思う。
この間のコンサートで飛行機やらなにやらでたっぷり時間があったので、芸を離れたみんなの事が個人的によく分かってきた。パスポートを見る限りではみんなまだとても若いのだ。ドランテが31才で、彼の兄のギタリスト、ペドロ・マリア・ペーニャが年子の32才、ビオラのラファエル・フェルナンデスも、フルート,サックスのナッチョ・ヒルも同じ年恰好だ。
紛れもなくジプシー独特の浅黒く精悍な容貌のビセンテは、パーカッションのカホン(箱をたたくのよ)で、そのシャープな雰囲気から年齢不肖の感じがするけれど、20代前半なのだ。
 年齢別で言うと一番分別がありそうな、ドランテの父ペドロ・ペーニャは誰よりもやんちゃだったりする。グループにはいつも修学旅行風のいたずらとやんちゃな雰囲気が溢れていて、仲間内でおかしな事を言い合ってはいつもゲラゲラ笑ったりしているのだ。
 とかくフラメンコの演奏グループがパコ・デ・ルシアでも、ビセンテ・アミ‐ゴにしても、いつも男ばかりで編成されているのは、つまりこういう屈託ない男同士のざっかけなさ、というか気楽さを維持したいからなのだ。女が入ると、過激な会話が無難を帯びたりして、多分台無しになるのだろう。私のような物事のよーくわかった、気取らない女の場合に限り、ちょっとは気を抜いても大丈夫、と彼らが思うくらいで、それにしてもこういう人達と長いコンサート・ツアーに遠征したりするのは大変かもしれない。

 なるべく色っぽくならないように、女性というよりは従兄弟の姉風にしないといけない、という、こっちには逆の意味での気が張る。
ステージに立つまではひらひらした物や胸のうんと開いた物、体にぴったり張り付いた物を着るのはよそうと、つい思ってしまう。(生徒のみんなは先刻承知の私のワード・ローブはまさにこの種のものばかりなのにね!)
 ...で、本番5分前になって、私が別人のような衣装に身を固めて楽屋から一歩出た途端にみんながわっ!!と驚いて視線を張り付かせるので、この間は参ってしまった。舞台に立つ前にどっと冷や汗が出てしまいましたよ。

「いいからー、ほら、そんなにじろじろ見ないで守備についてよー」てなものです。
これ、毎日やったら慣れてお互い全く無関心になれるか、疲れてへろへろになるかのどっちかだ。
...多分あまりうまく行かないのだろうな、それでベレン・マジャなんかは女だけの編成グループなどを対抗して作ったりするのだ、きっと。

わき道にそれて一人、忘れてしまった。もう一人のパーカッションのアルバロ・ガリードだ。この人の事をドランテは「怪物」と呼んでいる。自分だって怪物のドランテが、わざわざ怪物と呼ぶアルバロは本当にものすごいリズム感の人だ。リズム細胞でできている人間、という気がする。
こういう音楽のどこにリズムを見つけて刻むのかな、というくらいにあらゆるリズムのなさそうな曲にもリズムを見つけ出してつむぐのだ。みんなで車を待ってぼんやり座っているような時でも、はるかかなたにかすかに聞こえている音楽に耳をすませてぼんやりと刻んでいたりするのだ。
 ここまでが、プライベートの時の彼らの印象だ。

 仕事になるとみんな別人になる。その道の達者だもの、当然だ。
ドランテは普段が無口で内気な分だけ一層に激しい、厳しい人に豹変する。耳がピュ―マか何かの動物のようにいい。何一つ容赦しない。
 みんなリハになると、打って変わってものすごく厳格な雰囲気になる。こういう緊張をあえて何かにたとえると、全員が敵の裁判に、たった一人で立たされたみたいな気分。
「ああ早く終わってまた再び幸福になりたい...!」これは、 舞台が秒読みに入るといつも心に湧く、私のいつわらざる気持ちだ。
もっと本当の事、知りたい?「なんでこんなプロフェッション選んじゃっただろう!」
一日として思わない事がないくらい。
更に本当の事、言ってしまおうかな、日曜だし...みんなと同じに集中レッスンがとっっっても待ち遠しい。
〆切る、〆切る、というマネージャーにそんなぁ、かわいそうだからもうちょっとだけ入れてあげてーと、うだうだ言って困らせているのだ。

●2001年03月18日(日)

【家長の沈黙】


この話しをする前に、ジプシーの生活がどんなものかを説明しないといけない。南スペインは今でも農業型の経済基盤だと思ったほうが理解しやすいかもしれない。あの、「風とともに去りぬ」の大農園、綿花を摘む季節労働、ああ言う風景が今でも見られる。少なくなりつつあってもまだ、あの風景があるのだ。今より一世代前のジプシー達はこの小作農民がほとんどだったのだ。農奴に近かったらしい。こうした生活に甘んじていたジプシー達、最下層と言われた人々、その一方ではあの、ゴヤの絵に出てくるような大地主としての貴族が栄えていたのだ。....今でも栄えているくらいだ。
 
 ここでドランテの一家に話しは飛ぶ。まさしく彼らはこの階層の出なのだ。一つ違うのは、何世紀にもわたって歴史に残るようなフラメンコのアーティストを出しつづけている家系という事だ。ドランテの父、ペドロ・ペーニャはこの階層から這い出て、教育を受け、ジプシーとしてはおそらく初めてといわれる教職についた。最後は校長にまでなった人だ。大学出のジプシーというのは、今でも大変珍しい。この人は、教職にありながらアントニオ・マイレーナなどの伴奏者としても活躍した。こうした向上思考の父親からドランテのような音楽学校を出たピアニストが生まれたのだと私は解釈していた。ところがそれだけではなかったのだ。ここに実に感動的な逸話があるのだ。

コンサートの後の大フェルガの最中にドランテから聞いた話しだ。
「ねえ、あなたはもともととってもうまいギタリストだって聞いているけれど、本当にやりたいのはピアノなんだ、てお友達に打ち明けたりしていたそうじゃないの。そもそもピアノに出会ったのは何がきっかけだったの?」
私の問いに彼は、家にあったピアノのせいだと言うのだ。え?家にピアノがあった?これは信じ難い。赤貧、洗うが如しのジプシー達の生活で、ピアノ....て?
「僕の祖父が買ったんだ、ピアノを。貴族が持つような、大昔のろうそく立てのついたやつを。」ドランテはにっこりしながらここでちょっと私を見た。
「自分では弾けないし、一族にも弾く人がいないのにっていう事?」
「うん、そうなんだ」
これでぴんと来てしまった。「素晴らしいわ...とっても信じられない。ものすごく、ものすごく無理をして買ったわけね?自分達はこの階層にとどまらないぞ、という意気込みと決意で、買ったのね、ピアノを。そうでしょ?」
ドランテは嬉しそうに何度もうなづき返した。「自分が弾けもしないのに、象徴としてのピアノを買ったっていう訳ね?」

「すごい....で、ついにあなたを出したわけよね?お祖父さんの心意気で」
ドランテは又、うなづくのだ。私とドランテにはこの種の声なき会話がとても多い事にお互い気がついてきている。ドランテが口数が少ないせいもあるけれど、何て言うかテレパシーみたいにカンで分かる事がとても多い。
それにしても、すごいと思いませんか?
 ドランテは後に長じて音楽学校に行くのだけれど、小さい時から「ジプシーの家にある筈のないピアノ」に、激しい思いを感じとって分からないままに弾いていたという。お祖父さんの一族を向上させたい思いが、教育者となった初のジプシーを出し、その子がついにジプシーの入魂のピアニストになった。まるで映画か小説みたいなお話しですが、実話です。
 ダビ・ペーニャ・ドランテは、三階建ての趣味のいい家を買って住んでいて、広い半地下に何台ものピアノを置いている。中でもフルコンサートタイプの素晴らしい光沢のピアノが中央で彼の作曲を助けている....これでまだやっと31才の独身の男性なのだもの、お祖父さんに立派なはなむけができたというものですよね。
ドランテのシギリージャ、SILENCIO DE PATRIARCA (家長の沈黙−私の訳ですが)は、おそらくこうした一連の逸話からできたものだと思われる。今回のプログラムでは、このシギリージャと続けてブレリア、GAN~ANIA(小作人)を一曲として弾く。ドランテの作品にはいつもこういうジプシー一族の魂が主題になったものが多い。彼の叔父、レブリハ‐ノもかつてジプシーが船奴として繋がれて植民地に連れて行かれていた時代の「迫害」という作品を残している。ドランテはこの叔父に大変かわいがられ、ギタリストとして多くの作品で共演しているのだ。ドランテはギターの腕もまた逸品で、18才の時にヘレスで受賞しているくらいだ。
 この間のコンサートでは、情熱がほとばしり出てくると、ピアノに寄りかかって消音しながら弾いたり、フタのあいたピアノの、弦のあたりに両手を入れて弦を弾き出すのだもの、驚いてしまった。舞台の袖で見ていると本当に素晴らしいアーティストなのだな、としっかり納得できた。手はとっても大きくて、しなやかで、タッチがとても力強い、情熱のピアニストだ。

●2001年03月09日(金)

【幸運を祈って!】


ペドロ・ペーニャとフラメンコナンバーのリハをした日からこっち、大変な事になってしまった。
 今まで色々な打ち合わせばかりで実際に練習は1度もしていなかったのだけど、(驚く?プロは間際まで練習しないのだ。練習し過ぎると本番前に共演者への興味がなくなってしまうの)...で、ちょっと踊ったら大変な事になってしまった。

「ふうううむ」、だけではなかった。本当かなー、というくらいにみんなで気に入ってくれてしまった。絶賛、というくらいに驚いてくれてしまった。
特に、ドランテのオリジナル曲の振り付けを終わったからちょっと見て意見言って欲しいな、と私が言うと、うん、うん、どれどれ....
 それで、みんなでとても驚いて、今夜ちょっと実際に、ドランテのテレビリハーサルがあるから、夜いらっしゃいと言うのだ。

 話しが込み入っていてわからないでしょう?ここのところ連日、グループは公演とテレビとレコーディングで、朝と晩と別々のリハをやっているのだ。すごい忙しさなのだ。
 言われるままに一昨日の晩、ドランテのテレビ・リハーサルの緊迫した場に出頭。ちらっと踊ってみる。みんなが、うおお!と言う。

それで、たちまち来週のグループのコンサートに、私も出ろと言われてしまった!
えー!!
飛行機とってくれて、ホテル手配してくれて。
もう、夢のようと言うか、悪夢のようと言うか....。
一回も通しで練習していないのよ!まだ!
この事実を、メンバーの誰一人として心配しない。君なら平気だよ...て。ほんとにぃ?買い被りじゃないのぉ、と密かに胸を波立たせているのは私だけなのだ。
このドランテの劇場コンサートは何ヶ月も前からソールド・アウトなのだ。チケット一枚も残っていない、フアン待望のコンサート。それの一番の目玉のオリジナル曲に共演させてくれると言うのは、これだけでも大変な名誉だ。その上、練習なんかしなくても君ならできるって、凄過ぎません?
文化勲章か、紫綬褒章か、オリンピックの表彰台か、金メダルか、という凄さよ。スペイン人が絶賛した時は2種類の真実があるのだ。どうでもいいからとにかく誉めてやる。これが一つ。もう一つは本当に感動したから。どちらも迫真の演技だから、普通はどっちの真実なのかを知るのは、難しい。

大入り満員の自分のコンサートにいきなり初共演なんかさせたら、万一にも相手がしくじったらドランテには大変な傷になる。これは私に対する絶大な信頼なしにはできる事ではない。だってどの道一枚の切符も残っていないのだもの、今更誰かを加えるメリットなど彼には一つもないのだ。

どうして練習しないか...どういうアレンジをするかドランテにもわからないからなのだ。つまり即興が全てのコンサートになるから。
 この間の晩も、テレビのリハーサルだから一曲通すのかな、と思っていたら始まりのフレーズの後、いきなり最後の〆に入って終わってしまったのだ。中間部分はやらないのだ。なぜって、ここは即興だから練習しない。全員、ドランテの即興に即興で答えるから、練習しない。君も練習しなくていい。こういう理論です。...で、君ならできる!そして、誰も心配しない。

つまり、私は全部振り付けて実力を認められたところで、全ての振り付けを捨てる。今まで踊り手として生きて来た全てを賭けて、即興するのだ。通しはソールドアウトの本番舞台の上でのみ1度実現する。
唯一聞かれたのは衣装の色だけ。
全員黒だと言う。赤はどう?
決まり!

3月13日よ。幸運を祈って!

●2001年03月06日(火)

【舞踊の魔術】


そう言えば、マノーロ・マイレーナは(アントニオの弟)どうせ正規のギャラは払えないだろうから、経費くらいでいいから日本に行ってあげるよ、と私に言っていた事がある。もう、本当にどうしようか、と言うくらいにみんな日本に来てくれるというのだ。ほとんど毎日会うアーティストの全部がそう言ってくれる。ところが、こんなフラメンコの紳士録に載っているみたいな大物アーティストにきてもらって、生徒の発表会で初級のアレグリアスとか歌ってって、言えると思う?ガロティンの練習して、とか。あの、このコンパスがかろうじて入っている子のソロ、歌ってくださる?とか....なんか犯罪的におそろしくない?
 へスースはこの間、みんなにお手紙書いたからアカデミーにフアックスしてくれって言うのだもの。ここで又、今度の発表会はいつだ、て聞かれる。

 私が全半生振り返って最高のバレエ教師だと思う、ジョン・キングは、モーリス・ベジャールの舞踊団で世界中を公演したけれど日本だけは行きそびれた。君のアカデミーでクルソやりたいな、なんて言うのだ。この方は森下洋子さんの相手役で共演していらっしゃる。
 もう、奮発して鷺沼にバレエクラス作ってしまったものね、まずは入門篇ですが。みなさん、よくご覧になってHP。そのうちもっと本格バレエ・クラスも作り、毎年ヨーロッパで大活躍の一流のダンサーを連れ帰ってバレエの集中レッスンも始めますよ。クラシコや何かの大家も連れて行く。フラメンコもみんなが私に飽きてくれたら、スペイン人連れて行ってみんなの面倒見させて、その隙に私は気分転換にスパニッシュ舞踊教えたり、子供バレエの振り付けやりたいな。子供ってホタの衣装なんか着たらとってもかわいいから考えただけで嬉しくなってしまう。絵に描いたお魚なんか持たせて、マラゲーニャとか、ああ、わくわくしてしまうな。どんなにかわいいかしらん。
そのうちフラメンコで落ち込んでいる大人がこっちの分野に適性見つけたり、どれもこれもダメだったらまあ、だまされたと思ってバレエでもやってなさい、とかかなりリハビリ的な事も柔軟にやれる。
失恋しちゃったんです!もう、なにもかも人生いやになりました、なんて人はしばらくスペインに送り込んでリフレッシュさせたり....スペイン語できたら私が秘書に雇ってあげるし...
 そうして秘書ができたら、私、又、留学したいな。ロンドンとか、イタリアに。ここまでやったら最後まで行ってしまうものね。世界の舞踊を訪ねてめっちゃくちゃに知り尽くしてやるのだ!
 最近、ジョンのせいですごい筋肉になってきてしまった。力がみなぎるっていう感じ。これが昔、年中貧血で倒れていた同じ人間とは思えないくらい。やっぱり素晴らしいな、人生は!生まれて来て良かった、と思いません?練習生の皆さん!

●2001年03月05日(月)

【ペドロ・ペーニャ・フェルナンデス】


生徒から続々無事帰国の連絡が入ってほっとしているところだ。ここのところものすごい嵐で、大洪水地域がスペインでも出ているくらいなのだ。帰りの飛行機は遅れたそうだが、あんなに嵐でも飛べるのね!何かあったらどうしようかと一人で気をもんでいたのだ。
 さてさて、スペイン研修旅行計画が、もうほぼ日程も詰めて決まりかかっているそうだ。申し込みが8人になったという電話があった。午前中はレッスンがいいと勧めた手前、私が講師を見繕っておく事になっている。パコ・タラントか誰かに歌も教えてあげて!と言おうかな...と。
我が親愛なるヘスース・エレディアにこの間生徒を頼んだら、教える場所に苦労して、これを見かねたOFSの社長がスタジオを貸してくれた。これだけでも大変な好意というものなのに、生徒が音程が取れなくて苦労していたら、ヘスースが仕事中のOFSの社長にギター持たせて、「伴奏してやっておくれー」と言ったそうな。こおんな贅沢ってあるー?私でさえ滅多に伴奏してもらえないのにぃ...アイム ジェラース!
 
 明後日あのすばらしいペドロ・ペーニャとフラメンコ・ナンバーを見る事になっている。ああ、なんだか感慨深い。
このカンタオールがどんなに素晴らしいか、みんなにどうやってわからせようかと思う。私がこっちに渡ったばかりの頃、あらゆるフェスティバルでアントニオ・マイレーナの伴奏を勤めていた。あの当時のそうそうたる歌い手達はみんなペドロ・ペーニャに伴奏してもらいたがっていたものだ。彼はギタリストなのですよ。素晴らしいギタリストよ。歌にも造詣が深い、造詣が深い、なんて書く事自体が滑稽なくらいだ。今のスペインでこの人ほどフラメンコロゴとして実力のある長老は滅多にいない。
レブリハ‐ノはこの人の兄だ。母親は有名なカンタオーラのペラータだ。若くして亡くなったギタリストペドロ・バカンもえーと、弟だったかしら?従兄弟だったかしら?
とにかく、カマロンもアントニオ・マイレーナもまだ生きていた頃の、あのフエスティバル全盛時代のギタリスト達の中でこのファミリーは特別だったのだ。そのペドロ・ペーニャも60才の坂を越えてそれはそれはしびれるようなドゥエンデのカンタオールとなっている。この人はドランテの父なのだ。
わかりますか?私の感慨がどんなに深いものか。かつて一介の留学生としてこの国に渡り、憧れの舞台の上の人だった、そういう素晴らしいアーティストとこうして共演できる幸せは、誰に感謝したらいいのか、と思う。しかもこれは私のリサイタルや、自主公演ではないのだ。一人のアーティストとして日本に呼んでいただく。彼らとは、共演する。私がお金にものを言わせて雇うわけではないのだ。純粋に、同じ土俵に立たせて戴く。
 お願いだから私が自慢たらたらだ、と浅慮で非難しないで。言うなれば、戦後日本の復興と同じような、そういう種類の感慨に打たれるのですよ。
 スペインに渡ったばかりの頃、ああ、この分厚い歴史と濃厚な血がたぎる世界に自分はどうやってたったのひとりぼっちで、フラメンコの伯父、叔母、祖父母を持たずに立ち向かって行くのだろうか、と思ったものよ。悲愴な気分にはなったかもしれないけれど、多分希望と、美しい物への憧れがずうっと強い力となって自分を励ましてくれて来たのだと思う。

 最近、ソレアばかり踊っているので、もうこれしか踊れないみたいに思われるかも知れないけれど、私はペドロ・ペーニャが歌ってくれるのならなんとしてもフラメンコの母たるソレアが踊りたい。あの、熟成のVINOのような深い声、本当にこの瞬間のために自分は生きてきたのだ、と思うようなコンパスの瞬間。素晴らしいカンタオールと共演できる幸せは長い、長い修行の道を全て補ってなお余りある。
 ペドロ・ペーニャは、私の母より少し年上なのだ。だから今はもう、遠い国には公演しない。今回はドランテの初来日という事もあり、私がどうしても素晴らしいカンタオールを、と望んで特別に随行してくれる事になったのだ。本当にどんなに素晴らしいかよ。明後日、うちに来てくれるそうなの。なんだか赤いじゅうたんでも、門からずっと敷き詰めたい気分。
一生懸命踊ろうと思う。ペドロの肯定的な「ふううううむ...」を戴きたいと思うわ....

●2001年03月03日(土)

【嵐に閉じ込められて思う事...】


ものすごい嵐だ。
昨日は運転が怖かった。ただでさえすごい雨なのに、突然、もっとすごくなって、洗車のマシーンに入っちゃったかな、というくらいに前後も何も見えなくなるくらいの雨が吹きつけて恐ろしかった。
事故ったら大変だといつも思う。
 いつだったか何かの契約の時に、私の親愛なるアカデミー・マネージャーは、相手に向かって、「うちの先生はよく飛行機乗りますし、車も乗りますし...」(だから万一に備えて、というのを言外というか、言内にもくっきりと打ち出して...!)と言ったのをまざまざと思い出すのだ。あの契約の時にこの衝撃のフレーズにたまげてしまって、それだけが強く印象に残って、果たしてあれは何の契約だったか全然思い出せないくらいだ。それなのにほとんど乗り物に乗る時に一日に何度でもこのフレーズが頭に浮かぶのだから、人間、どこで誰にどういう印象を植え付けられるかわかったものではない。

 今日は本当にすごい嵐なので外出はやめようかな、と考えている。生徒達の飛行機は無事出発できたのだろうか。夕べも一晩中風がうなり声をたてていた。こっちに来ていた生徒が、一日しか自由にならなかった買い物の日に何を買ったらいいかと聞くので、注文に難しい踊り靴の色物と、髪飾りの高級な物、と指示しておいた。プラスティック製でも、手作りで手の込んでいるこれらの髪飾りは結構値が張るので、日本ではほとんど取り揃えていないらしい。
 いつかやろうと思っているロンデーニャ用の帽子を買えというのを忘れてしまった。なんと言っても慌しい旅行だったので、悪天候でこうやって家に閉じ込められて思わぬ休息を余儀なくされると、あれこれと言い忘れに後悔する。
一つ嬉しかったのは、生徒達が毎晩、タブラオを二件も掛け持ちして夜中までハシゴで見に行く熱心さだ。ホテルの支配人がさすがに目に留めて感嘆の声をあげていた。
「あのご婦人方はセビージャ中のタブラオを一日も欠かさずに全部見て回っているんですよ、何回もね!!」
 手塩にかけて育てている生徒だけに、しっかりと要点を押さえて勉強に余念がない。同じタブラオに繰り返し出かけるのだ。ばっちり録音もしてきているという。うん、うん、でかした!そのテープで自分もやれるか帰ったら踊ってみなさい、とけしかけた。こういう教材で5年は楽しめるというものだ。
 スペイン語の必要性にもつくづく反省させられて、帰ったら語学学校に入るという。ほら!またぁ、どうしてすぐ人に習おうとするのよぉ、自分でやりなさいよ、自分で!
 私達の高等学歴の最たる恩恵は、自分でなんでも知的分野に入れる力があるという事なのだ。時間だけがいつもない。だから人と群れないで自分の「半端で死んでる時間」でやるのだ。どうせどんなに大決心して始めても、その程度の歩幅でしかやれないのだ。一日三つの単語とか、一つのフレーズとか。それだけだって続ければ大したものだ。立派に通用する。
 続けること、あきらめない事、悲愴な感じにならないで明るく行く事、これだけだ。これさえ忘れなければどう間違っても、私程度には軽くなれるのだ。それじゃあ、嫌だ、という人だけがもっとやればいいのだ。

●2001年03月01日(木)

【エスクルシォン】


今日は、仮縫いもさぼり、何もかもみんないい加減にして、こちらにやって来た生徒と午後を過ごした。
 始めはすごく忙しいから、30分だけね、と言っておきながら結局は食事に連れて行って、このつれづれに頻繁に出て来るセビージャ市の西の丘一体を車で疾駆してパノラマ観光をしてしまった。みんな、ああ、これが!わぁあ、こうだったのですねぇ!と喜ぶものだからいい気になってこれから更に広がるインターナショナル大学の用地や大掛かりな都市計画地帯なんかを見せに行ってしまった。ここが、郊外の何ていうところでしたっけ?などとこまめに聞いてはしっかりと頭に入れようとしている健気さだ。
 夕べはタブラオ・エル・アレナルに行ってきてものすごく感動したと言っていた。ここが、先生の踊っていらしたタブラオだと思って感激でした、すごかったです、なんて夢中で報告するのだ。髪の結い方も、クシの差し方も、先生がいつも注意している通りでした。あそこはみんなきちーっとしてました。お衣装も先生の言うとおりでした!興奮と感動は覚めやらないらしい。目と耳で確認した喜びに生き生きとしていた。
 踊りも、ああ、いつもうるさく言われているのはこの事か、なるほど、ガロテインの色気が足りないって言うのはホントだ、こうやって踊るのか!としみじみと理解したというのだ。ブレリアってこうだったんですねー!良かったです。よーくわかりました!!とっても満足です!とみんなして嬉しそうにしている。今月来た子達はみんなとっても嬉しそうに帰って行った。
 アカデミーも生徒の気運が高まっているので、スペイン研修旅行、今年はできるかなぁ、是非やりましょう!という話しになった。
 選り抜きの講師陣のレッスンも組み込まれた、うちならではのツアーを是非実現させたいものだ。もっともっと色んな所に連れて行って驚かせたいな!
コルドバやカルモーナの溜息の出るような大地を見せてあげたい。フラメンコがどういう土地から生まれたものかを身をもつて感じられるように。

 ねぇ、ばらばら来ないで、やりましょう?うちの遠足!いつにする?
午前中はレッスンして(歌も踊りも)観光ガイドに絶対載っていないようなところにばかり連れ歩く旅がいいな。夜、オペラ座なんかにもいきましょう!フラメンコは勿論だけれど。カナリア諸島は素晴らしいんだ、まさかそんなに休めないと思うけれど、この世のものとは思えないような素晴らしい劇場があるのよ。何万年前だったか、地球の爆発でできた、すごい所を利用して作ってあるの。自然の力のためにものすごい音響効果の劇場になっている...
セッサー・マンリケという偉大な芸術家の事、聞いたことある?この人が作った劇場なの。まずは1週間〜10日くらいの旅をアレンジしてみましょうか?
みんなのために誰かアーティストを呼ぶ事だってできるのよ。
そうだ、是非やりましょうね!!

http://www.flamencoole.com/

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