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2001年06月のセビリア発信・つれづれ草
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●2001年06月26日(火)

【ひまわり】


セビージャを一歩出たら、一面のひまわり畑に見事な花が咲きそろっていて
新鮮な思いがした。
6月の後半からいつもこうなのだ。

 あと数時間で飛行機に乗る。
レッスン関係の物はみんなOKだが、自分のスーツケースはまだパッキングできていない。着る物なんか皆目見当がつかないのだ。
こっちはひまわりだし、40度を越えているのに、日本は梅雨だ暑い、雨だ、気温が不安定だ、と言う。
白なんかは着ちゃいられないんだっけ?
靴がどうしていいか分からないし、もう何もバッキングする気がしないのだ。

 ここ数年、服と靴があらゆる所にばら撒かれていて、組み合わせがままならない。はて、これに合った靴とバックはどこだっけ?
という事が頻繁だ。同じような趣味の物を何セットも買ってしまう。

ゲストブックがぱったり止んでしまってみんなして声をひそめてしまったみたいで不思議だ。上陸に備えているらしい。
しばらくつれづれとスペイン語はお休みになるかも知れません。
本当はもっと歌詞を登場させようとしたのだけど、驚いてしまった人があるみたいなので、クラスでみんなの様子を見ながら加減しようかと考えている。
エッセイの方も、飛行機の中で少し書き溜めておいて逐次誰かに更新してもらうかも知れない。
まったくHPが途絶えてしまうというのも愛嬌がないから。

今週末は奇異な経験もしたし....

本の原稿は、アーティスト編をたったの一人を残して全部調べ終わった所だ。
この一人のメモはべりっと破いて飛行機の中でなぐり書きする予定だ。

この間、編集者からメールが来てしまって「不気味な沈黙」を読みました、と書いてあってあわててしまった。今回の区切りで一応ページ数の話が多少詰められるかも知れない。この夏は完成に向けて相当がんばらないといけない。
 
 さてと、みんなどんな具合かな?ちょっとは上達したかな?パルマ、ちゃんと毎日やらないとダメよ。
では、クラスでお目にかかりましょう!楽しみにしています。
7月にスペインでレッスン受けたいとメールくださった方、
集中期間中に一度事務局にお電話下さい。

●2001年06月23日(土)

【少しづつ更新】


今、スペイン語をアップしたら壁紙が美しい目の覚めるような赤になっていて
思わず元気が出てしまった。
これぞ私の色だ。じゃんじゃん行くぞ。

トップはどうして早くなったのかわからない。
不定期便にもかわいい、はかなげな☆がちらちら付いていた。
☆につられてクリックして下さった?
目に優しい青い色が出て来て、左には同系色で目次もついています。

これ、とっても作業が大変だつたらしいのだ。
何百色ものバレットをまず私に送ってくれて、何度も見本を出してくれて
うるさい私の希望を入れて作業してくれたのです。
娘のバレエ照明は適当なくせにこういう物には凝りまくる、悪い癖。

集中も近づいているし、毎度おなじ疑問を持つ人がいるのであらためて読んでおいて欲しい。

自己中心的と言われようが、とにかくうちのHPは一番見やすい気がしている。
こういうものを管理してくれてド素人の私のわがままを辛抱強く聞いてくれる
生徒に、感謝しているので余計にそう思うのかもしれないけれど、
派手なサインが点滅していて目がちらちらしてしまったり、字がびっしりで出すなり迷子になりそうなトップを沢山見かけるので、これが出て来るとほっとしてしまう。

出るのにイライラする写真は極力押さえているが、それを承知で見たい人のためのページも
おいおい作ってもいいかな、と思っている。
インパクトとしては一挙にやった方がいいのだけれど、
こんな風に一つづつ、というのも家庭的な味わいと、
作ってくれている人の努力がしのばれて、なかなかいいものですよね?

●2001年06月22日(金)

【うたうん】


明日はめちゃくちゃ忙しい。
日本に行く前の仕事で、ごたごたになっている。
荷造りしていないし、その仕事から下の娘の発表会
(子供のバレエのくせに生意気に夜やるのだ)にかけつけないといけない。
おお、この間日本で買った一眼レフ、説明書も読んでいない!

朝っぱらから照明合わせをするから、朝と夜の本番と2回出なおして来いと、エバが言うのだ。
照明だって?いいよ、もう、薄あおい色でも当てときゃあ、なんて乱暴言ってはしおりたくなる。
レ・シルフィードでしょ?青でぼうっと妖精らしくしときゃあ....
と言って逃れようとしたらエバに鬼か何かのように言われてしまった。

 今日は総げい古だというのに、すっかり終わった2時間後かなにかに
スタジオに娘を連れて行ってしまった。
三つ四つの子供ばかりの別のクラスに放り込んだものだから(中も見ないで)
娘は、エバに付き添われてクラスからたちどころにして出て来た。

なんだか娘が涙をこらえて唇を震わせているのだ。
それでもわかんないものねー。
あら?どうかしたの?

レ・シルフィードが大好きで、お稽古を楽しみにしていたんだそうな。
あらららら....失敗!次ぎの稽古はいつ?
次ぎって、本番の朝だけよ。とエバがすまなそうに言う。

ま、いいよね?今日はママがカーラ・フラツイのシルフイ―ド見せてあげるからね、ビデオね?
かくしてビデオ・テープの大捜査となってしまった。
ヌレエフとマーゴット・フオンテ―ンの素晴らしい作品まで出て来て
また、子供をそっちのけで夢中になる。
ちょっとこれ!これ見なさい!見た?ブラソはこんな風に流れるようにやるのよ!
あ!これこれ!見た?

ホント、こんなにうるさくってよくこれで子供が興味を失わずにいるものだと
反省してしまった。
それでいて小さな胸に入りきらないような、わくわくするような総稽古はあっさり
忘れてしまうし、発表会の日を一緒に指折り数えて待っている訳でもない。
おお、明後日?やばい!てなものだ。

お母様のお仕事は一体何?てなものですよね。

 今日はスペイン語だめ。これから生徒のパルマについて研究しないといけない。
さっき電話で「うたうん」までたたくのか、たたかないのか、と出し抜けに聞かれたばかりなのだ。
まだブレリアの〆め方が、わからないらしい。
国際電話で聞くかネー。
先生が変な顔したらこっち、okそうなら合ってる、と
怪しい結託をしているらしいのだ。
なんか遠くで落雷のきざしが.....ごろごろ...来るぞぉ

●2001年06月21日(木)

【電車でやきもき】


ゲストブックにとても気になる書き込みがあったので、なんだか黙って見過ごせなくなってしまった。
 電車の中で知らない人に荷物どかして下さい、と言って老人を座らせてしまう、というご意見。まるで自分の双子でも見るみたい。
私なんてもっとすごいもの。
刺される可能性は更に高いな。

あんまり言いたくなかったのですけど、(おお、君のやりそうな事だ、と言われるのがオチかな、と)子供を抱いて小さいスーツケースを抱えて満員の特急列車に乗ってこようとしていた若い若い母親が、その電車に乗っていた私にはホームに入るなり見えた。...昨年の事。
そうして私は奥の方で立っていたので、この人を助けてあげれないな、と早くも苦しんでいた。
案の定、みんな席を譲ってやらないどころか、戸口によりかからせてさえやらないのだ。かの母親は、赤ちゃんというには大きい、でもまだ一人では立てない小さな子を抱いて、揺れる電車でバランスも取れないで困り果てていた。混んでいるものだからスーツケースも下に置けない。しかもはにかみから、その困惑を悟られないようにしているのだ。誰ひとりスーツケースの始末を心配してやらないのだ。

ホント、あらゆる年代の人が乗っていてこれだもの。年配の物のわかったそうな婦人が何か助けてやってもよさそうなのに、この頃は日本人はこの年代ももうダメ。女である事も、母親だった事も、まして気の良い主婦ですらない、ただの年とった「昔は女だった人」ばかりだ。

私はやきもきして呼吸困難になってしまう。と、席を立つ人があってぼさっとした顔の若い男性がすわろうとした。すかさず言ってしまうものね。どうかあの方に席を譲って差し上げて!で、ここが日本人離れした私のすごいとこ。車両の1番奥から叫んじゃうのだ。「ちょっと、そこのあなた!!こちらにいらっしゃいな、お席がありますよ!!」みんな驚く。こんなの見た事ないって?なんとでも言って。
 法事で関西の方まで行かないといけなくて、混んだらいけないと時間を平日の昼間と見当をつけて来たけれど、こんな混み様で困ってしまいました...
その人はそう語った。私が居なかったらこの人、どうなったと思います?私、踊り手を廃業して電車のお助け係りになろうかと思ったくらいでした。

 次ぎは男の人だ。男だって小学校の1、2年生の子供に寝られてしまったら、とても抱いて立っていられない。抱いているからつり革につかまれない。子供が寝てしまう時間まで外をうろついている方が悪いと言ったって、色んな事情があるじゃないですか。年老いた母親に孫の顔を見せに連れて行って思わず引き止められて不憫で振り切ってこれなかったとか...。電車は揺れるからとても危ない。男だって辛い!
またやってしまうのだ。気の毒だなー、と思うんだけど、「差し出がましいのですが、あの方、お気の毒ですし、危ないですからお席を譲って差し上げられないですかしら...」あ!はいっ!!て、立ってくれたので良かったけれど、この人、自分から言い出せない人だったと見うけた。なんだか恥をかかせてしまってごめんなさいね、一応心から謝る。大勢の人が聞き耳立てているんだもの、彼の面目のためにも、申し訳ないですよね。やりたくなかったな。

 言い出せない人って結構いるみたいですね。母親はしっかり子供に躾ないといけないな。どうして躾ないだろうか。口は物を言うためにもあるのだし、声は歌うためだけにあるのではない。はにかみも、時と場合によりけりだ。

ヨーロッパのどこの国だってこんなのは当たり前の事なのに、どうして礼儀正しい、神経のこまやかな文化を自認する日本人にできない?
昔からこうでしたっけ?この国は?

こういう話しは手柄話しみたいに聞き苦しいものだから、なるべく言わないようにしていますが、それでも私は電車に乗るたび、失望します。人に対する配慮がないのはどうしてかしら?利害の関係するお得意とか上司に対してはかなりなものではないですか。卑屈なまでの気のききようですよね。

 いつだったか、タクシーの運転手さんとこの事を話していた時に、譲っても断る人がいるから引っ込みがつかなくなって嫌だと言っていました。
一理ありますね。私もやられた事がある。
いえ、すぐそこですから、ていうの。そうでもないのに。
あら、そうおっしやらずに、私もこうして立ってしまって恥ずかしいから是非おかけになって、と、にっこりしちゃうのだ。そうするとあちらもにっこりして座ってくれるけれど、いつの日か断じて断られたら困ってしまうな。

ブレリアでもひと踊りしてお茶でもにごすかな。

●2001年06月20日(水)

【ゆとりだらけの生活、いづこに?】


下の娘は親友のエバ(不定期便の第1話と37回に登場)に預けてバレエを仕込んでもらっている。エバと私は毎朝同じバレエクラスで会っているのに、だ。
自分の娘は教えられない。

 今週末、エパの学校では発表会の運びとなっている。
 娘はレ・シルフィードで妖精になるので張り切っている。
それなのに、見に来てくれる家族は私一人しかいない。年に1度の晴れ姿なのに哀れな事だ。
 
 よりによって上の娘の南スペイン今期の最終戦とかち合っているのだ。
先週はセビージャで一位になって代表選手になっている。
元水泳部の父親が大会のあるマラガ県までこっちの娘は送って行く事になっている。
 こっちもあっちも、家族の応援が一人っきりだ。
よそのスペイン人の家族は一族郎党引き連れてそれは盛大なのだ。

 水泳娘の方はまだしも、バレエ娘は更に不憫な事に、私の仕事が重なっているものだから舞台に出た途端に帰らないといけないのだ。
 お友達や大きいお姉さん達のステキな舞台は一つも見れない。
 エバも華麗に踊る筈だから、これは私も見たい。
けれども、バレエの舞台から娘を引き剥がしてハイウエイをひた走り、ヘレスに夜の10時には着いていないといけないのだ。

 その翌日にまたひた走りして、マラガ県に辿りつき、水泳娘の決勝戦に間に合うか?表彰台だけかも、という所だ。
 今シーズン、ただの1度も試合に応援に行っていない。継母でもこれよりはましかもしれない。

なんてゆとりのない家族かと溜息が出る。

 で、これが終わったら日本行きの飛行機だ。まだ何の買い物も済んでいない。間際にもらったフアックスなんかをまともに読むのはいつも飛行機の中だ。
仕事を片付けてやっと整理がつくのは機内なのだ。
 どこの弁護士か公認会計士か、という仕事ぶりだ。
書物をしていなければ、これから踊る曲をヘッドホンで聴いていたりして、とんでもないのだ。つまり、踊る曲は飛行機に乗るまで知らされていないとか....間に合わなかったとか。降りた途端の公演先でのもろ即興にそなえているとか。

1度でいいから機内でダラーと映画なんか見てあはは...そういう旅がしてみたいなぁ。

●2001年06月17日(日)

【コンクール、開催国は?】


またまたゲストブックにコンクールのコメントがあった。
文句ばっかり言ってないでお前がなんとかしろ、と言うのでお答えする。

 実はやろうと思った事がある。
スペイン往復航空券なんかうちのアカデミー一つの規模で私がポケットから出してしまうくらいだ。
今年の秋にアカデミーで楽しいくじ引きをするのだ。その景品を毎月買い足している。イブニングドレスももう5着買った。
ウエディングドレスにまで目が行ってしまう。買っちゃおうかな、と思ったりする。
人に何か買ってあげるのが大好きなのだ。自分に買うよりずっと楽しい。
...で、買い物狂いばかりしてないでですね、コンクールでもやれ、と?

けれども、それ、どこかの先生が昔やっているんです。その時にやっぱり1番も2番も自分の生徒にしたのですよ。みんなかんかんになって怒りました。

高橋英子だの鈴木敬子ちゃんも出たんですけど、自分の生徒が1番と2番。
確か高橋英子は3番で、敬子ちゃんは選に漏れてしまったんじゃなかったかな?この時のバタ・デ・コーラは私がスペインでデザインしてあげたから、敬子ちゃんの無念にいたく同情しました。

 実は当初私もこれに出てやろうと思ったのです。だってね、年齢制限していたんです。30才まで、と言ったら当時活躍していた碇山奈々もみんな引っかかって出て行けない。そういう読みがあっての設定だとみんながうわさしていました。私は全然引っかからなかったので出てやろうと思いました。
おお、こんな奴が居たか!ときっと主宰は驚いたでしようね。
 私は賞なんかどうでもいいから面白いから出たいと思ったのですが、確か仕事で調整つかなかったか何かでした。
 すばらしく踊ったとしたら、誰が何と言っても素晴らしいのであって見てしまったものは、見なかった事にできない。
見なかった事にできない踊りを目指すというのはそれなりにオツなものです。

...で、まあ結果は始めに書いた通りけんけんごうごうでしてね、暫くはこの話題でかしましく、スペインにまでいっぱい怒号が聞こえて来るようでしたよ。

 コンクールを開催するのはかまわないですが、こんな事実が日本フラメンコ界にはあるのですから、昔の経緯を覚えている人達が二度目を信用しないでしょう。始める前からつまづくことになりませんか?
それにせっかく育てている生徒が一人も出れないのではあんまりだ。
新人公演なんかに出るな、と言っておいてもっといいコンクールを主宰するのに自分を信じて慕っている生徒は誰も出れないのですから。うちの生徒だけが日本で1番ばかみたいになりますよね?...それはあんまりだ。

 私は日本で何かやりたいと思いません。
あまりに沢山失望させられてしまったので、日本で評価して欲しいという気持ちが希薄です。たとえば、誰に評価してもらいます?
 むしろスペインで文化交流のフエスティバルを催したいと思っています。生徒も集中生も広く参加して。
 実は私の夫は昨年からカンテのコンクールのスポンサーになっています。いつも先を越されて悔しいですが、ああいう不透明な事ばかりの日本よりはスペインの方が良い企画が立てやすいです。地元だし。
 
 企画はいっぱい持ち込まれます。タブラオを開かないか、とか。これは割りと簡単に実現できます。ところが、自分のタブラオを持ってしまうと経営者にならないといけない。私はこれが苦痛で踏み切れません。
奇異に聞こえるかもしれませんが、私はビジネスが好きでないのです。
 日本のアカデミーは私が実質としては経営していません。生徒のアソシエイションのようなものです。私は教える事にほとんど全部のない知恵を注いでいるばかりです。HPを立ち上げてくれたのも生徒だし、PCを買って来て教えてくれたのも生徒。私ってとても無能なの。謙遜なんかでなく全くの事実。
踊る事と教える事しかちゃんとやれないのです。
その延長として本の執筆をしているし、生徒のセビージャの寄宿舎も準備している。これで目いっぱい。まだ自分もこの先イギリスやイタリアに留学したいし。アメリカ、という線もあるしね。(日本に近くなって楽だし)

 コンクール、スポンサーになってもいいです。でも開催場所はスペインだな。ここならいい審査員も揃うし、質も内容もぎっしりして意義あるものになると思いますね。ギタリストとカンタオールは一流の人をみんなに付けてあげれるし。参加するだけでも幸福です、ていうものにしたいな。
 飛行機に乗ってきても、こっちのが安上がりかもよ。考えてみて。

●2001年06月16日(土)

【憎まれっ子世になんとやら...】


ゲストブックに新人公演についてご意見があったので、また一言。
 それはね、コンクールはどんなにくだらないものでも1番になるのは良い事だ。1番というのは努力賞だの3番より迫力がある。残念ながらこの名言は私のオリジナルではない。スペインの実力カンタオールが昔言った言葉だ。

 さて若手の夢の祭典なのだからそれはそれなりに努力して出るのは個人の自由だ。けれどもあれを神聖視してはいけない。
あまりに配慮がないからだ。
審査員の規定もミステリー並だし、奨励!と言っているだけで奨学金も出さない厚かましさ。
スペイン人の暴利をむさぼるのは手放しで、つまり育成してあげないといけない筈の新人が餌食になっているのに手を打たない。
これはコンクールではないから、とさもコンクールがいけない、汚らわしいもののようにお高くとまっておいて、同じ人に3回も奨励賞を出したりする。
1回奨励したらもういいんじゃないの?次は航空券でもあげなさいよ。
それとも3度も4度も奨励し続けないとめげてしまう?

こういうものから、けなされても、ほめられても、ああそうですか、そのお言葉を励みにします、なんて事は言いっこなしだ。
 
 この間の公演の時に実はとても嫌な思いをした。
スペイン人達が、あの公演のお陰で暴利をむさぼっておきながらおおっぴらに悪口を言っていたのだ。
..幸か不幸か、スペイン語わかっちゃうものね、全部。

 すんごい立派な劇場に、すんごい大掛りな照明だの音響スタッフばっちりつけて、一体どこの大フェスティバルかと目を疑うまぶしさ!
まるで包装過剰の粗品みたいだよな、へへへ...。

これ、しかと耳にしてしまった。

あら、じゃあなたは一体なんだっていうのよ、と言ってやろうかなぁ、とむずむずしてしまったけれど、ま、野放しにしておいた。こんな事を言ったら私まで嫌われてしまうかも知れないけど、割と素直に聞いてくれるかしら?
事実として。
 実はああいうものを初めて見た私は、つまりスペインから来たての目で見て、やっぱり似たような感想を持ったのだ。
中野ゼロというのは優れた立派な劇場だなぁ!と。大きくて素晴らしいし、音響とか見やすさもよく考案してある。なかなかステキな劇場だ。素人がじゃんじゃん出て来る感じがしないくらいに、実に玄人っぽい、いい劇場だ。

 まあ、当然ながら一端始まってみるとかなり驚いた。
 素人がじゃんじゃん出て来た。当たり前なんだけどね。
ちょっとスペインではこういうのは有り得ないからびっくりする。
あの手の劇場はプロしか出ないのだ。

衣装なんかもスペイン製だと一目で分かる物を着ている人が少なくなかったし、振り付けもスペイン人にやってもらったんだな、と分かる人が多かった。
おそらく留学したものと見た。
 みんなしてジプシーっぽいがんがんした足と乗りのポル・ブレリア関係が好きなんだな、という感想を持った。
でも、ほとんどの人が決めを外していて、とても驚いたのだ。
その歌の〆と同時に振りも〆なかったら、一拍前後したらもう、意味を成さないのがフラメンコの即興だから、絶対に外してはいけない。
こういう本物嗜好の人はこれが分かっていないといけない筈だ。
線から全部はみ出して塗った塗り絵みたいに、それは豪華な劇場と高価な衣装とはマッチしなかったのだ。

 意地悪で言っていないからね、絶対によ。素直にびっくりしたスペイン的観点の驚きだ。
ある意味では、自分の集中レッスンでどういう事を徹底的に教えないといけないかがよく認識できて良かったとも言える。
決める足、決めの振りは、歌とギターの決めに入らなかったら、もう別のところで無理やりやってはいけないのだ。
乗り過ごした特急券で、別の汽車に乗れないのと同じだ。
いじましくいつまでも券を握り締めていてはダメ。
あっさり捨ててしまわないと。

 日本を出て幾星霜。コンクールとしては私が優勝した79年よりずっと質が落ちていると悲しく思った。あの時の審査員には教室関係者は一人もいないばかりか、グラン・アントニオの舞踊団の筆頭ギタリストが加わっていた。
賞金は20万円。副賞のスペイン往復航空券を2枚の往きだけにして戴いて、夫と二人でスペインに高飛びした。
 
... 勿論、良い事づくめではなかった。あのコンクールも色々あった。優勝が決まった楽屋でお祝いの代わりに「良かったね、その顔と衣装が審査員の好みにぴったりでさ」と言った人は、奇しくも現在、新人公演の審査員として君臨しているのだ。

●2001年06月15日(金)

【カジェ・アルムデーナ】


今日は大変な一日だった。カトリックの行事の聖体際で休日なのだが..、
私に限っては、休日になると普段やれてない仕事がドーと予定に入ってくる。
私の上を行くOFSのプロデューサーは家族が寝ているうちからコルドバに旅立ってしまっている。
仕事の打ち合わせがあったので朝から車を転がして...付き合うのを嫌がる二人の娘をシートに縛り付けて出かけた。
子供は私に付き合うのが嫌なのだが、一人で仕事ばっかりしているのが嫌な私は、まだ小さくて親に勝てないのを良い事に、暴君のようにして二人を引っ立てて行く。

 それにつけても、最近ニーニョ・リカルドの家族の事がしきりに思い出される。スペインに渡ったばかりの頃、それは親身にお世話していただいたのだ。
リカルド夫人は娘のノエリの1才の誕生日にニトログリセリンを携帯して我が家に訪ねてくださった。もう、当時でさえ高齢で病気がちだったのでまさかの時のために注射やお薬を携帯して出かけてくれたのだった。長い事外出はしていなかったのにお嬢さんや親族に付き添われて楽しく過ごしてくださった。
 その後、いよいよ病気が重いと風のうわさに聞いていたたまれなくなったが、次女が生まれたばかりで、へろへろしていた私は、ついに機会を逸してしまった。
 お嬢さんと書いたが、ニーニョ・リカルドの次女に当たるコンチリは、私の母より年上なのだ。この人とは、私達がスペインに来る以前から文通をしていて、それはそれは親戚のように暖かく迎えてもらったのだった。よくお互いの家を往き来して、夫の伴奏でコンチリは歌ってくれた。この人はさすがに今世紀最大のギタリストの血筋柄、サエタに至るまでよく歌う。作詞も自分でしてしまうので大変なものだ。傍らでリカルド夫人が絶妙なハレオを時折入れて、あとはじっと満足気にゆったり座っていた。
 私の夫は当時もおそらく今もリカルディストで、リカルドの曲をよく弾いたので、夫人は涙ぐんで何度もこの大ギタリストのギターを倉から出してそれで弾いてくれと言ったものだったけれど、その都度とんでもない!
と言ってお断りしていた。
 ある日、断り切れずにギターだけはついに手に取って、素晴らしい音色に感動したのもあの頃の素晴らしい思い出だ。リカルド夫人とコンチリが二人して私達のアパートにやって来ると、必ずフラメンコのしみじみとした饗宴となり、バルコニーの下に大勢の観光客が佇んでいた事も何度もあった。

 ...時は流れ、長い年月の中で私達はいつもとても忙しくて、心にかかりながらも不義理をしてしまった罪悪感でかえって電話一つできなくなってしまった。
今こうしてリカルドの伝記に取りかかっているとなお更に辛く、もうここ数ヶ月は朝に晩に胸がしめつけられるようなのだ。
ついに今日は意を決して子供を引き連れてリカルドの家を訪ねた。

 そうしたらかつてのあの、懐かしい親戚の家のようなリカルドの家はホテルにリフォームされて明日が開店日だと言うではないか。
リカルドの家は3階か4階建てのどっしりとした建物の中にあり、中心街の中で
も核になるほどのど真ん中にある。中庭をめぐったマンションは広々として立派だった。各階に別々の家族が住んでいたので、私はこの建物全部がリカルドの遺産とは知らなかった。
 リカルド夫人が亡くなってから遺産をめぐって縁の薄い人まで乗り出して来て大変だったらしい。
やっとの事で近所の老人に事情を聞き出したが、私達の愛するコンチリは、随分と傷ついて、一切から身を引いてどこかに隠棲してしまったと言うのだ。

美しく改装された、小さな趣味の良いホテルを目の前にして私はなんだか取り返しのつかない苦しみで、じっと身動きできなくなってしまった。
娘達に会って欲しかったし、できれば長い間のご無沙汰を許して欲しかったのだ。
 古い書類やわずかのつてを頼ってでも、今度こそきっとコンチリを探そうと思って帰って来た所だ。

●2001年06月14日(木)

【またまた、コンクール】


昨日のつれづれで、今日はメールが10通も来てしまった。
先生ごめんなさい、でもやっぱり出たい、式のやつ。
何もいいじゃないの、お金が続くならなんだってやれば。
 ただし、あんなところでけなされても本気にして落ち込まない事。
かつ、ほめられても鵜呑みにしてやたら喜ばない事。
 録画したビデオをしっかり見て自分の目と耳だけで判断つける事。

 みんなちっともゲストブックで物を言わない。
ここに公言します。ゲストブック関連で私に裏メール寄越す生徒は、ドラッグアンドコピーでゲストブックに私が貼りつけます。名前だけは生徒Aとか隠してあげるけど。もう公言したから後で文句言わないように。

みんなのためになるのだから自分の意見や考えをこそこそ私に打ち明けないでばーん!て出しなさい。芸名で出したらいいんじゃないの。
それでもドキドキするのかなぁ。

 昨日書かなかった事でもう一つ大事な事がある。

スペインのコンクールはほぼ全部、アマチュアは保護されていない。
つまりプロじゃないから甘く、おまめ、という扱いにならない。
なぜか!それはプロが出場するからです。プロ、アマを問わないのが普通だ。
どんなプロが出るかというと、スペインで第一線で活躍している超売れっ子が毎度出たりする。パコ・デ・ルシアと世界中を回っていた天才バイラオール、ホアン・ラミレスなどは実に12年間くらい出続けたくらいだ。
 つい先頃のコルドバのコンクールではクリスティーナ・オヨス舞踊団のイニエスタ・コルテスがまたもや出た。この人も根性ものでありとあらゆるコンクールに何十年も出続けている。(中傷とは思えない筋からあんまり毎度出て来てめんどくさいので今年ついに賞をあげてしまった、という発言耳にしました)
なぜ、プロを出してしまうのか。なぜアマチュアに限らないのか。という疑問が出るかもしれない。
それはつまり今世紀の初め頃、グラナダでカンテ・ホンドのコンクールをはじめて主宰した時に、見事失敗に終わっているんです。

素人、と限定したために当然、その道の上手は出てこなくて、非常に質の低いものになつてしまった。あの有名なマヌエル・デ・ファジャ(ファリア)が提唱したコンクールでしたけど審査員はみんな退屈し、失望してしまったという事です。
以来、本当のフラメンコの水準を期待してこそ質の高いコンクールになるのだという定見が出来て、この道に従事する全ての人に門戸は開かれ、かつ白熱するべきだという事になりました。だからえー!?
というような名の売れた人もぞろぞろ出てきますよ。
賞金が欲しい、とはっきりしている人もちゃんといるし。

審査は公平な事も勿論あるけれど、目に見えてインチキな事も沢山ある。裏取引もある。それは誰かが誰かの知り合い、親戚、愛人、なんて事は避けられないもの。
 さて、と今日はこの辺で。ゲストブック活発に書いて。個人メールダメよ。

●2001年06月13日(水)

【舞踊コンクール】


本日、スペインのクリスティーナ・ヘーレン財団から舞踊コンクールのお知らせが来た。生徒などを出さないか、という通知だが、
注目に値する項目があった。

その前にちょっとこの財団について説明。
日本の専門誌などにはクリスティーナ・エ―レンと書いてある。これ、スペイン人と勘違いして苗字のHを読まないでスペイン読みにしてある。
この人はアメリカ人なので、これ、間違い。

詳しく書くと長いからざっと乱暴に。要するにアメリカのお金持ちの婦人が大変素晴らしい事にフラメンコを応援するための財団をセビージャに作り、踊りや歌やギターのアカデミーを経営している。
主に外国人がここに参加している。
自分は踊りも何もやらずに普段はグラナダで悠悠自適に暮らしているらしい。

それが今度はフラメンコのコンクールを有名デパートをスポンサーに、マルベージャ市という、マラガのめちゃくちゃなお金持ち、貴族、俳優、スターでごったがえしている特別な地方都市を巻き込んで主宰するらしい。

 コンクールの応募要綱は別に普通だけれど、自分のアカデミー生は応募できない、と明記してある。ここが、どこかの国と大分違う偉いところだ。

 日本の新人公演は、あろう事か審査員は舞踊教室、ギター教室を経営している講師陣ばっかりで構成されている。ほとんど利害の抵触する人だけで構成されているコンクールというのは、世界にも珍しい。
そうして必ず有力審査員と関係深い生徒が何がしかの賞をもらう。
協会内部でもこういう現状に批判があるというから、考え過ぎではないだろう。
 最も私が不愉快に思うのは、これはコンクールではない!
とうたっている点だ。どこがコンクールと違うのか?違うからどうだと言うのだ。どこか高貴な香でもするのか?ではコンクールのどこが悪い?
芸に優劣をつけてしまったら、名目がなんであれ同罪だ。

そうして新人を育成するためだという割りには、スペイン往復航空券も、賞金も、せめて衣装の商品券すらあげずに澄ましているところだ。
 それでいてカンタオールを主催者がオフィシャルに雇ってやらないものだから、片手で足りるだけの僅かなスペイン人が一日で何百万円も稼いで暴利をむさぼっている。
 これに気がつかないとは言わせない。これでどこが新人の育成なのか?
その上、応募するために年会費をまず払って会員にならなければならず、30枚くらいのチケットも持たされる。
 スペインのコンクールは普通、コンクールの主催者がお金のない人でも立派なバックで出られるように、歌い手とギタリストをこの日は雇ってあるのだ。
一日幾ら、のギャラを主催者が払い、応募者全員に歌ってやる。弾いてやる。
おまけに、その都市にくるまでの往復の交通費まで払ってあげる所もある。応募者全員に!
 そうして始めて、「新人の育成」と言えるのではないですかね?
 
 いくら説得しようとしても、それでもみんなあれに出たいと言う。今も振り付け中だ。
 私は振り付け家だから頼まれれば振り付けるけど、あれに出るなら振り付け者の名前は出すなと言ってある。私の名前なんか書こうものならろくな事にならない。それはとっくに証明済みだ。

●2001年06月11日(月)

【不気味な沈黙....】


仕事が忙しくて、今週は本の原稿が進んでいない。
もう帰国まで2週間ちょっとしかない!!!!

 また、土日に書き進めている。日曜日の今日は本業が忙しくて少しも書けなかったので、もう寝る間際になって罪悪感からホアン・ブレバとマノーロ・カラコールの伝記を調べていた。
 まったく一人につきげっそりする程読まないといけない。それを後でコンデンスミルクみたいに濃縮するのだからほんの数行のためにこんなに読むのかなァ、といつもいじましく往生際の悪い溜息が出る。....つまりいやいややってるのだ。(なんて正直なんでしょう!著者が嫌々やってるの、と言ってしまうのだ、はは!執筆中に。あきれて物が言えないわね、ホント)
...で、途中で疑問が幾つも出て来てあっちの本、こっちのメモなんかひっくり返して「そんな!」4年も早く死んでる事になってるじゃないの!じゃこの死んでから4年後に歌ってる劇場公演記録は何よ?..と、シャーロック・ホームズになってしまうんだなぁ...計らずも。
死んだ、という年をバツにして記録の方を正しいと判断つける。

 マノーロ・カラコールとアントニオ・マイレーナは生まれた年が一緒なのだ。片方は情熱、マイレーナは純粋派、的に叙述されている案内書を私は確か随分読んでいる。
なんとなくそんな気がしていた。
 でもスペインに住んでからこれは大分違う事にすぐに気付いたのだ。
二人は同じ年に生まれたジプシーのカンタオールだが、スペインという国の中での二人の立場は随分違うのだ。
 別にアントニオ・マイレーナを貶めるつもりはないが、カラコールという人は国民的英雄になったスターだ。ペペ・マルチェーナの場合と違うのは純粋なるカンテ・ホンドでもあり続けながら圧倒的な大衆と、そして知識人、芸術家、かつ、なんと言ってもフラメンコのプロ達の絶大な尊敬と賞賛の的であり続けた点だ。その華やかにしてきらびやかな芸歴と成功の道。他に追随者はいないのだ。カラコールただ一人なのだ。日本で漫然と資料なんか読み漁っているとマイレーナもカラコールも並列になってしまう。時代のエネルギーとか人々の熱愛の仕方というものが分からない。
 
 舞踊史についても日本の専門書には、コンチャ・ピケ―ルの名前が絶対に出て来ない。これ程フラメンコにとって重要な人は居ないのに、だ。全てのフラメンコのスター達はこの人に関わっている。カンシォン・エスパニョーラの重要性を誰も分かっていない。カンテ・ホンド一辺倒だ。実際のスペインの本当のフラメンコ史というのは、外国人が頭でっかちに観念しているのと随分違うのだ。孤立、あるいは流派が確執していない。それはもっと相互に共存しているのだ。お互いを認め合っている事のが多い。

 これをうっかり言うと、ちょっと本場に住んだからってあんただって日本人なんだよ!などという見当違いの猛烈な非難なんか浴びてしまう。
現に浴びた事が何回もある。

だからってこれを避けようと保身ばかり考えて呉服屋の番頭みたいにもみ手なんかしていられない。それでなくったってページ数が足りないのだ。私の事なら好きに切り刻んでくれ、大事なのは書いてある中身だ。書き手なんかどうでもよい。(ただし切り刻む前によく考えて。ひき肉の2度引きにされないようにね、とか?あはは...また怖がるぅ、冗談だってば)

 歌い手についてはこの100年の重要な歌い手達について列挙するつもりで取り組んだけれど、どうしてもその前の百年から始めないと読者に対して不親切だと思い始めている。つまり19世紀から始めないと現在までが理解できない。なんとしても1800年初頭から始めないとダメだ。そうして初めて感動的な史実がつながって来る。逆にここから始めれば、カマロンは書かなくても大丈夫だと確信するに至った。

 毎度嫌々作業にとりかかるけれど、毎回何かしら驚くべき矛盾を発見して自分が別説を定義する事に意義を見出している。
早く終わって、いっその事ミステリーかなんか書きたい、という誘惑に駆られるけれどたとえ秋までかかってもちゃんと仕事の質を保ちたいと思っている。

 最近、編集者が何も催促して来ない。見捨てられたのかも知れない。

 そうしたらどうしよう?こんなすごい労力の本の原稿抱え込んで?うへー

●2001年06月08日(金)

【マエストロ/マエストラという言葉】


 日本の雑誌などで、頻繁にこの言葉が出て来る。
先生とか、その道の上手に対して使っているようだが、
この感覚は少し違う。
 スペインでは、この言葉はあまり使わない。

例えばフラメンコのアーティストに対してはなお更だ。ほぼ絶対にこれで呼ばない。

亡くなったエンリケ・エル・コホに対しても、カルメン・アマジャ、サビ―カスのような不世出の
アーティストに対してさえ使わないのだ。
僅かに、アントニオ・チャコンに対して敬称の「ドン」を付けた。

 大概先生に対しては、フアーストネームで呼んでしまう。
学校の教師には「ドン」が男性で、「セニョリータ」が女性だ。
結婚している女性でもこの場合はセニョリータと言う。
 こうして見ると、日本の「先生」に該当する言葉はないと言えるかも知れない。
あの、なんとも言えない親しげで、愛情のこもった言い表し方はないのだ。

 今書いている本のある章で、辞書機能を持たせた。フラメンコをやっていて1番頻度の高い、
知っていないと困る100語だったかな、もうちょっと多いな、120くらいの言葉について解説している。
 日本で言い習わされてしまっているけれど、どうも違うものも入れた。

 以前、生徒が「ソレポルなんか踊ろうかと...」と言ったので仰天した事がある。
こういういかにも業界っぽい変なスペイン語、言わないようにね。
スペインでこんな風に略しませんよ。これ、造語です。
私が結構忍耐できないのに、アレグリ、セビ、がある。
ダメよこれ。アレグリア、くらいならいいけど。それから、プーロ・フラメンコは絶対ダメ。
全くの誤りです。反対。
フラメンコ・プーロです。フラメンコ・フェスティバルでなく、フエスティバル・デ・フラメンコ

 そう言えば、いつかゲストブックで誰かが、スペイン人の先生に
「あなたの好きなフラメンコの歌い手はだれですか」と質問された、とあった。
歌い手はカンタオールで、カンタンテではないです。

聞き間違いでなかったとしたら、この先生はアンダルシアの出身ではない。
カンタンテという言葉は例えばオペラ歌手に対して使うけれど、
フラメンコには絶対に使わない。

 昨日、仕事先でエル・ミンブレが亡くなったと聞いた。
マティルデ・コラールの弟で素晴らしい踊り手でした。
 私は彼のクワドロで毎日踊っていた事があったし、主人は別の舞台で共演していた時期がかなり長かった縁があります。OFS社で、ソロコンパスシリーズのペテネ―ラスを録音したのが最後の仕事になってしまった。次ぎをやろうと言っていたのはついこの間の事だったのに...。
そしてこの時にミンブレが、
「じゃ急いでくれよ。もう、いつ死ぬかわからないからな」と答えたというのを
私は、半信半疑で聞いていたのです。又、随分悪い冗談だと。
日本の練習生にはあんまり知られていないでしょうけれど、
私はとっても淋しい、辛い気持ちがします。まだ、50を幾つも出ていなかった筈なのに。
 この事は書くのはやめようと思っていたのに、フラメンコと言えば、彼の事を思い出さずにいられません。それは素晴らしいアルテの踊り手でしたよ。とても真似ができないようなね。
マエストロ、という言葉が出たところで心からの敬意を込めて、ご冥福を祈ります。

●2001年06月07日(木)

【ベルデ・カルアッへ】


可動式のバレエ・バーで苦労している。
どうしてもスペインで使っているようなのが、日本で欲しい。
 長さも抜群に長く、支えはちゃんと鍛冶職人が打ち出してくれた鉄でしっかりできているようなのが。
 日本ではどこでこんなのが作ってもらえるかわからない。
 鍛冶屋があるとも思えない。

 スペインで当然と思っているような物が、日本に全然なかったりする。
行く所に行けばあるのだろうけれど、どこに行ったらあるか調査しているだけで時間が経ってしまう。
その上、そんな物はなかったりするのだ。

 バレエのバーで、もう何ヶ月も調査を重ねて、日本調達は諦めたところだ。
昨日は、鍛冶屋に出かけて行って支柱を発注して来た。
 いかにも昔堅気のおじさんが、ふむふむ、と聞いてくれて図を描き、
ここはこれくらいの直径がないとしっかりしない、などと熱心に考えてくれた。
おまけにスタジオまで一緒に出向いてくれて現物も見てくれて、
安心しなさいと太鼓判を押してくれた。

 ああ、なんと頼もしい、これだからこの感じの人は頼り甲斐があるとほっとした。

これを飛行機に乗せて日本に持って行くと言ったら、おじさんがおかしそうに笑った。
すごい重さだよ、追加料金がかかるんじゃないのかね?
と言って心配までしてくれる。
「いいのよ、こんな立派な物はスペインの鍛冶屋さんでないと作ってもらえないんだから」と言うと、とても嬉しそうにしていた。
 色はどうするかね、と言うので深緑にしておいて下さる?
と言うと又、嬉しそうにうなづいた。
VERDE CARRUAJE は、こういう鉄の細工物の伝統色なのだ。
無口なおじさんの自分の仕事への誇りと、なんとなく弾んだ気持ちとが、
こちらに伝わって来て私まで嬉しい気持ちになった。
 スペインは鍛冶職人というのは伝統の鉄の細工物が
いまだに決しておとろえないから健在だ。
この非常に精巧で重い文化は、やはり異民族の物だな、といつも思う。
鉄を持っていたのと持たないのが、そもそも人類の歴史に大きく関わっているのだ。
そこに考えが及ぶと、なんとなく感慨深い思いがする。

自分のスペイン生活が長いな、と感じるのもこんな時だ。
私は、スペインのこの年代の、こういう人達がとても好きなのだ。
ほとんど自分の肉親のような、遠縁の伯父、というくらいの親密な愛情を感じる。

そして事実、私はこの国にはとてもお世話になっているし、実によくしてもらった。
どこに何があって、どんな風に手に入れるかが全て分かっているのはここであって、日本だと簡単なネジ釘一本でも探しあぐねて空振りしてしまう。

さあて、どうやって飛行機に乗せようかなぁ.....

●2001年06月05日(火)

【真夜中過ぎです、おお、眠い!】


 今日は資料を読んでいて、すごい発見をしてしまった。
 19世紀末に生まれ、20世紀の始めまでカンテ・ホンドの大家、この人のあとでは誰も歌えない、という伝説の人、マヌエル・トーレの伝記と史実を読んでいたら、これ程の人だったにも関わらず、亡くなった時には一文無しで、妻子は路頭に迷うほどだったらしい。ま、これくらいは日本でも本が出ていて、へえー、アーティストだもの、さもありなん、とうなづいたりできる。

 ところが、この人の生誕百年を記念して新聞社が彼の成人した息子に、その亡くなった前後の詳しい事情をインタビューしているんです。幼少の頃の。

これがすごい。びっくりしてしまった。

 この人より少し後に出て、一世を風靡したカンテ・ボニート派の歌い手、ぺぺ・マルチェーナという人がいます。1903−1976没です。二人は全く対象的なのです。片方は人が胸をかきむしり、男泣きに泣いてしまうような魂の生粋のフラメンコの伝統派の頂点だった人。

この後の人はフラメンコが危機に陥ったのは彼のせいだ、とまで言われた甘美なフラメンコ風を打ち出して、しかも50年間にわたって絶大な人気を得て、映画に録音に大変な活躍だった人です。
 本格フラメンコが、この人の人気のために日陰者になってしまったとさえ言われている。この論説は有名だから、知る人ぞ、知る、二つの潮流の対決。にっくき敵、てなものです。

 ああ、ところが、ところが、です。まあ、皆さん聞いてください。
 なんとマヌエル・トーレが亡くなった時にその葬儀の費用一切を出したのは、身内でも、フアンでも、まして偉そうな口をきいていた評論家達なんかではなくってですね、このぺぺ・マルチェーナだったのだそうです。
 しかも、マヌエルの遺児達の後見としてずっと養ってくれたのも、この人だったのだと、インタビューで答えています。あんなに人々がカンテ・プーロとして絶対の傾斜と尊敬を表し、あれ程誰もがほめそやしたにも関わらず、亡くなった時には誰もマヌエル・トーレを思い出しもしなかった、ペペ・マルチェーナただ一人だった、と。

 感動してしまいました。事実に対してもそうですが、人の歴史に隠れた真実、人生の妙。
 これは後世になって何とか派、かんとか派、だから対決、そんな風に分類できない、血が通っているのですよね、人の一生ですもの。

 人気歌手ですからね、ものすごい高額ギャラの。だからそんな事いくらでもできただろう、という考えは一理ありそうであまり説得力ないです。
上り坂の人気にある多忙な芸能人が、一ジプシーの死を聞いてとてもその遺児にまで考えが及ぶものではないです。

 興を覚えたのでぺぺ・マルチェーナの活躍を年代を追って調べてみると、1922,24年のフェスティバルでマヌエル・トーレと共演しています。史実に載っていないあらゆる場面で二人は会っていたのかも知れません。
芸風としてマヌエルがぺぺに敬服していたとは思い難いですけれど、その反対は勿論有り得ますね。それだからこそ、放っておかなかったのでしょうし。
 アントニオ・マイレーナは、マヌエル・トーレの後に出番があった時、とても歌えないのでこれでお終いにします、と聴衆に向かってフェスティバルの閉会を宣言したという事です。

 なんで発売前の自分の本の事を書いてしまうかというと、とてもこんな事まで書き込んでいては、一冊にできないからです。でも、すばらしい発見だからフラメンコ界の教養の一助に...
では、せめて私のファンと生徒のために、沢山できてケーキに使い切れないおいしいホイップ・クリームは分けてしまおうと...
 毎日ホイップ・クリームが沢山で困ってしまうわ。

●2001年06月04日(月)

【日本海側だぜ、瀬戸内海、くっくっく】


ゲストブックに歴史の大論文が載っていて楽しみにして今読んだ所だ。
トモヨシ君、先週のはかなり参考になったけど今週のはすごくわかりにくい。
最もこの暑さでこっちの頭が悪いせいかも知れない。

 私はあの、四書五経というのは絶対読み下せないに決まっているけれど、
武士の教育に欠かせなかったものだけにいつか是非見て、
せめて驚かないとなぁ、と昔から思い暮らしている。
 うちは幕末では全然めざましい働きなんか一つもしなかった、
加賀藩の流れなのだ。

 こうやってさも勉強家みたいな口をきいておきながら
今朝は子供に日本の地図を描いてやって大恥かいてしまった。

 瀬戸内海を反対側に、四国をあっち側に描いて、澄ましていたのだ。
簡易地図。このくらいいい加減覚えなさい!とか言っちゃって。
土日だろうが、ちゃんと日本語やらなかったら水泳に行かせないから!
などとご丁寧に怒ったりなんかしちゃって....。

 あまりの事に、OFSの社長はギターを脇にのけて、
作曲を中断して乗り出して来ないといけなくなった。
あーら、ホントだ。間違ってる!....こんなものです、私の地理なんて。
 自信があるのは舞台の上の地理だけかも知れない。

 ところで、スペイン語講座はどうして各人称と動詞の変化をやらないのか、質問が来ないのだけど、誰も疑問に思いませんか?

 いつでもTU、すなわち、「あなた」だけにしか話しかけていない。彼等、僕達、それから敬語もやらない。何故か、と聞いてくれないの?

何故かというと、はじめはこれをやろうとしただけでスペイン語、
挫折するからです。
複数でも単数でも、全部これで通してしまうのよ。あなたと私だけ。
まず、舞台に出て行く事だけを目指す。
出ないと話しにならない。
人生、開けない。ここでうまい演技をして認められようとしない事。
出る、だけ。
出て何を踊るかは、いいのよ。血が頭に上らない訓練がちゃんとできてから考えれば。
 まずいな、ここは複数だな、と思っても人称を変えないで、喋ってしまって、最後に複数!かなんか叫ぶ。
えー!?
いいんだったら、これでなんでも通じるって。なんでも通じる自信がついてから、おもむろに、人間らしい人称を少しづつやっていけばいいの。

でも、一つだけ言えるのは、ターザンの時ほどだんだんもてなくなるって事。
かわいい外人、面白い最高に愉快な外人から、一挙にただの人に格下げになってしまうんだもの。正しい本格スペイン語を話したからって別にスペインでは誰も驚かない。スペイン語なんかみんな話しているものね、子供でも。

つまり、未熟な言いまわしを恐れる事はないのよ。気楽にやりましょう。
少なくともこのやり方で、1年でなんでも通じるようになる。
絶対保証する。
どう?嬉しくなって来ません?
じゃ、宝を掘る前に喜んでばかりいないで、掘りましょう?今週もね。

●2001年06月02日(土)

【ロシオ祭り】


一昨日からロシオの巡礼が始まって、幹線道路は馬車や牛車でいっぱいだ。
 朝、出掛けからして、高速道路まで達せなかったのだ。
 家の前から馬車でいっぱい。
去年は、生徒が私のレッスンの後、バス停で巡礼の一向につかまって飲め歌えやに引きづり込まれた。いやあ、すごいですねー。あっと言う間にどんどんフィノが注がれておつまみが出てきて、そんなとこで、バスなんかに乗ろうとしないで、僕等とロシオに行こうよ!
なつっこいですよねー、スペイン人て。
感嘆の声をあげていた。
 今日もすごい。地区ごとに時差出動というか、時差巡礼に出るのだ。
 うっかり何時に通過、というのがわからないと相手は身動きのままならない牛や馬や大型トラクターなのでぶつかったら最後、どうにもならない。

 旅行のパンフなんかで見た事ないですか?じゃ、私のエッセイ集のわくわくスペインお持ちの方は目次のあたりの挿絵をちょっとご覧になって。あれです。フラメンコの衣装着て、馬車に乗って、タンバリンたたきながら牛や馬や農家のトラクターに引かれて行く巡礼です。
 確か、このお祭りの事は不定期便に書いた。
どの巻だったかちょっとわからない。
全部めくってみるのは大変ね。
坊主めくりか、7並べ、はたまた神経衰弱か、て。

 もうすぐ、不定期便も便利になるので、楽しみにしていて欲しい。
 一昨日は200色くらいのパレットから色を選んだのだ。
バナーも作ってもらったのよ。
 ☆が欲しい、☆が欲しい―――!とうるさく言ってHP担当のNさんや、
お手伝いしていただいてるYさんを困らせているのです。
 今日は仕事きつく、今さっき帰ったばかりで疲労困憊なので、この辺で。
 それにゲストブックに誰もいないと、全然なにか更新する気になれない。

こんなにいっぱいスペイン語書いて、スペインの事情書いて、
だぁれも、なんにも見てないのかな、勉強してもくれないのかな、とふと見ると
160アカウントなんて!
一人10回も、実は16人、とは考えにくいから
こういう大きい数字みると、ペンなら床に落ち、PCなら
ウィンドウズの終了に直行したくなってしまう。
だんだん元気なくなるから、そのうち。
こういう気持ちは書き手でないと理解できないかもしれないけれどね..。

ガラスの箱に入ってしまって、ミラーグラスであちらには見えるのに
こちらは全然見えない。
ただ、向こう側に人がひしめいている事だけが
毎日知らされる、みたいな。
いかにもサイコ風で、とても心を差し出す気持ちになれない。
そのうち続かなくなるかも。
種切れではなくて、それこそ神経衰弱で。

●2001年06月01日(金)

【馬は射らずに、胃袋の考察...】


先日、色々な用事がずれ込んで、ぽっかり一時間だけ暇が出来たので、久しく会わなかった建築家のアトリエを訪ねた。
 運よく居合せたこの、素晴らしい女性は見かけは普通の人なのにとてもタフなのだ。女性の建築家。
 荒くれの大工や、女なんかに指図されたくない現場の男達を大勢使う立場の人だけに、凛とした物を持っている。
 現場の彼女は見た事がないのだけど、1度街ですれ違った時に大きなすごいバイクに濃いレイバンのサングラスとヘルメット姿だったので、挨拶されてもさっぱり誰だかわからなかった。なかなかのものだ。
突然、工事現場の彼女の勇姿がイメージできてしまったくらいだ。

 私達は仲良しの筈なのだけど、ちっとも時間が合わなくてまともに話しもできない。たまに彼女と会って、建築やもろもろの話しができる時間はとても充実している。素晴らしく聡明な女性なのだ。
私は知識を授けられるのがとても好きだし、彼女は建築に興味のある人は素人くさい質問をされても、うっとおしくないらしい。 
 この日も大きな製図机に向かって、部下か誰かの持ち込んだ設計図を素早く広げて助言している場に闖入した私は、計らずもセビージャにできる第40環状線の道路図を見てしまった。これはまだ、公開前なのだ。

 セビージャという都市は、まだまだ街の外に土地があるので、手のつけようのない中心街をそっくりそのままにして、外にぐるりと環状線を作って渋滞を避ける傾向にある。ここではまだ、高速は高速として機能していて渋滞はほとんどない。それなのに、もっと大掛かりな環状線が出来るのだ。それもどうもうちの裏辺りらしい。
 私のこの頼もしい友人は、アンダルシア自治政府の道路と都市計画の重い職にある。よく出張するのだ。学会などにも出席するから、ヨーロッパの他都市にも出かけて行く。そしてまた無知な私に面白いお土産話しを聞かせてくれるのだ。
 建築家の友人は、片手では多分足りないくらいいる。彼らの中には、家だけでなくて、その中の家具までデザインしてしまう人もいる。バスルームにはめ込むモザイクの色と大きさの指示まで書き込んである図を見た事がある。キッチンの家具もデザインする。システムにトータルに根気よく仕事を上げる様は見ていて驚異だ。デッサンは正確でとても素早い。素描も随分やるらしいのだ。ここに、こんなミネラル石をはめ込んだらどう?などと言うものならこてんぱんにやっつけられてしまう。彼らの多くは超モダン派の建築家で、手すりのないおっかない階段とか、ピアノ線をあしらったような螺旋階段みたいなものばかり好むのだ。
 システムキッチンのデザインなら、実は私も七回くらいはやっている。みんな知り合いの家ばかりだ。機能的なキッチンにするための、特別な引出しや、飾り棚を工夫して図にするのは、楽しい。レッスンで嫌になっている晩なんかに、床に寝そべりながら、定規を当てて行くのはご機嫌な気分だ。使いやすくて斬新な色使い、というのがミソだ。勿論、プロなんかではないから、こういうレクリェーションは私から友人へのプレゼントであって、アルバイトなんかではない。あんまり楽しいのでかえって任せて戴いたお礼をしなくちゃいけないような気にさえなる。
キッチンは大切だ。料理は更に。
胃袋が満足だと、ハートに満足が伝染するのだもの。射止めたいハートの攻略は、胃袋よ。忘れないで、乙女達。

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