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2004年09月のセビリア発信・つれづれ草
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●2004年09月03日(金)

ローラ・フローレスー続きー

 ローラにはカルメンという妹がやっぱりカンシォン・エスパニョーラの歌姫としている。それに加えて娘のロリータと三人でよく巡業していた。三姉妹、トリオ、そんな感じだけれどショーが華やかになるし、いい売り方だったかも知れない。
一方では、ローラの威厳と圧倒的な魅力に二人はかすんでしまって特別なヒットが見込めないで終わってしまった感がある。

ローラ・フローレスの息子のアントニオもシンガーソングライターでいい線に行ったりしたけれど、ドラッグのシーリアスな問題が彼と、この偉大な母親を苦しめた。

それはバコ・デ・ルシアの三兄弟にも言える。
二人の兄のぺぺとラモンは一人の全然別の土地の別の人として売り出したらそれなりに見合った成功をしたに違いないのに、バコという大天才の「兄」という肩書きがついて回ったのでブレイクできなかった。
天才のお陰でみんなも潤ったけれど、その葉陰で実力が認められなかったきらいは否めないのだ。全くこの通りとは断定できないけれど、まず大方の世間の意見はこの辺で落ち着いている。

ローラ・フローレスが亡くなったショックがまだスペイン中に渦巻いていた頃に、彼の息子が自殺してしまった。この人は離婚していて、小さな年端も行かない娘が一人いたが、それにも関わらず母親の後を追ったので、世間はまた二重のショックを受けた。

ローラの末娘がロサリオと言ってポップスではかなり売れた。
これこそ正真正銘のローラの血統の娘だと言われている。
ただし、伝統のカンションのスタイルではなく、モダンの色を帯びて世に出た。

ローラ・フローレスは若い頃から映画や舞台で第一線を歩いて来た華やかな存在だったけれど、家族を養い、引き立て、並大抵な苦労ではなかったのは周知の事だ。
しかも晩年は税務署の徹底的な追及があって裁判に引き出され、家財なども売り払いつつ自身のガンとの闘病が続き、それは辛い終焉だったのだ。
ここで、パコの弔問の言葉が胸にじんと来るわけだ。
その生き方も、死に方も、という例の言葉だ。

いかに気丈な人であっても、炎のアーティストと言われても、本当に苦しかったに違いない。
厳しい晩年だった。

最後の日に、病室のバスルームに立ちかけた自分の姿を鏡に認めて
こう、つぶやいたと伝えられている。
「ああ、ローラ・フローレス....!」(なんて有様になったんだろうね!)

ローラ・フローレスがカンテの大御所、マノーロ・カラコールの愛人であった事はあまりにも有名だ。彼とのコンビで数々のフラメンコ歌謡映画をヒットさせ、国民的英雄になって行った。

彼女はヘレス生まれの生粋のフラメンカであり、カラコールの薫陶と
数々の黄金時代のアーティストと共演し、やがて踊り手から歌手、女優へと登りつめて行った。歌は素晴らしい美声で聞かせる種類のものではなく、その鉄火肌と粋が人々の心をつかまずにいなかった。
合間のちょっとした踊りはもさすがに素晴らしく、ショービズの何たるかを知り尽くしていた。

こうした激しいワンマンショーの途中で、観客に分からないように
バックミュージシャンに擦り寄り、何か厳しく叱りつけているのを目撃したことがある。
黒服の男達はみんな震え上がった。
凄いアーティストだな、と小娘の私は又、感動したものだ。



●2004年09月01日(水)

ローラ・フローレス....
つぶやいただけで涙が胸につまりそうになる。

スペイン第一等のアーティストで、誰も異論は絶対にはさまない。

この人の印象は強烈で、何度もフラッシュバックのように脳裏に現れたその姿は、1981年の春のセビージャのフェリアだった。

2000人収容の大カセータに、私は生まれて初めてアーティストとしての
スペインデビューだった。
マノロ・マリンのクワドロに入れてもらえて、初めて踊ったのがこの時だ。当時はまだマノーロ自身が踊っていて、私はマノロとパレハで踊っていた。一週間の出演だった。

まだ、スペイン語も流暢にできず、なんだか落ち着かない、不安な思いと、これから頑張るぞ、と言う期待と。

でも、ローラ・フローレスを見るなり私は打ちのめされ、
驚嘆して、暫く何ヶ月も失意のうちに暮らしたような思い出がある。

つまりそれ程に素晴らしいアーティストであり、スペインフラメンコの根幹というものが何んなのかがはっきりと形になって証明された思いだった。
あれでないといけなく、あんなには絶対になれない、という思い。
あれでなきゃ、嫌だ、がんもどきみたいだ....

(笑.....あんな人はあれ以来二人といないのだからそんなにしょげる事はないと数ヵ月後にだんだん詳細が分かってきてまた、気を取り直して今日に至る)(二人と居ないばかりでなく、スペイン史に残りそうなほどの人とたまたま始めの仕事で行き合わせたのだと何年後かに、今度は暖かい、感謝の気持ちで思い出したりして、残りの何年もの年月を一生懸命また、稽古して今日に至る....付録)
(あの時に確か50才?で、ガンと既に戦っていたのだと亡くなった年に知って愕然。心からの尊敬と冥福を祈る事、しきり。光の根源のように美しかった。50才ってまだあんなに美しいのね、と元気も出て来たのは後のこと。)

ローラ・フローレスは、輝くような美貌と威厳と燃えるような激しさで
ピンクのバタデコーラに身を固めて登場した。
2000人の観客はどよめき、最前列にはマヌエラ・カラスコがまるで子供のようにして楽しみにして座っていた。

終わる頃にはマヌエラはただの観客から、熱狂と殉教の観客と化して
立ち上がり、拍手とハレオで絶叫していたのだった。

それから....おかま軍団....ローラ・フローレスのカッコ良さはありとあらゆるゲイの憧れで、最前列にはマヌエラとおかまの軍団が熱狂の掛け声で声を枯らしていたのだ。不思議な光景にびっくり...

マヌエラ・カラスコ....ブラックミンクコートを彼女の成功の証として着こんで来た巨大なマヌエラ・カラスコ。ただの小娘にしか見えない。

小柄な筈の、偉大なローラ・フローレス。マヌエラが小人になってしまうほどのアーティストが居る事を、この目で確認。

(注:この時期、マヌエラはガレージで作った粗末な私の稽古場を借りて練習していたのだ。だから毎日のように会っていた。私は彼女の隣に並んで鏡に映ると、肩幅の狭い、きゃしゃな女性に見えた。だから驚いてしまったのですよ。ローラの前でカトンボみたいになってしまうマヌエラ。じゃ、私は蟻んこだ。)

何ていう対象だろう.....私はただ、ただ、目の前の人達に圧倒されるばかりの、年若い、経験の少ない、ただの踊り手だったのだ。

この強烈な光景....ああ、日本とはこんなにも何もかもが違うのだ、と言う思い。

アーティストが見に行くアーティスト。
アーティストが命がけで真似したい、アーティスト。

国民的英雄なのだと分かるのはもっとずっと後。
氷山の一角なのかと思って、失意に落ちてしまったと言うわけです。

これから新体操の今期第1日目訓練に顔出さないといけない。
まずはここまで。もしかしたら又、明日、この続きを。
ごきげんよう

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