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2006年02月のセビリア発信・つれづれ草
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●2006年02月19日(日)

突然、千葉佐奈子

日本の感動の女性として何人か挙げよと言われると、千葉佐奈子が浮かぶ。ただ、晩年はどうしたのかが分らない。

北辰一刀流の始祖、千葉周作は江戸の三大剣客と言われた天才剣士だったのだけれど、この人の甥の重太郎が千葉道場を継いだ。

神田お玉が池の桶町に、当時江戸でも聞こえたその道場はあった。
ここで坂本龍馬が塾長にまでなっている。
重太郎と龍馬は親友だった。

ついでながら、この桶町の道場では、天才剣客の桂小五郎が坂本龍馬との試合で負けている。桂小五郎って、あの謹厳な木戸孝允と同じ人物ですよ。(女の鑑と言われた芸者の幾松を 首相になった後にも正妻として迎えた感動の逸話は、私がスペイン人の誰彼となくつかまえては話す一つ話ですが...)

桶町のこの道場から幕末の錚々たる剣客が出る。
そういう、日本の歴史を揺るがす男達が切磋琢磨している、江戸の最強を誇る道場の娘として、千葉佐奈子と言う、うら若い女性が実在した。

驚くべきことに、確かこの人は女の細腕で免許皆伝まで行ったのだった。
あの時代で、こういう道場で、免許皆伝って....!!

明治になってからーここからどうも記憶が定かではないのだけれど、佐奈子は津田塾大の教師ではなくて、寮の監督だったかしら?何か教職に就く。
学生の前で、坂本龍馬の着物の袖を出して 自分は龍馬のいいなずけだったと泣いたのだったか、告白するのだったか、とにかく袖一つを形見に 生涯を独身で過ごす。
剣の道を究めた、潔癖な女性の 胸に切ない生涯だ。

龍馬はお竜と言う京都の女性を妻にしてしまう。

佐奈子はどんな気持ちで形見の袖を守って暮したのだろうと思う。
それからあの、龍馬の死だ。

これほどの剣客が二階でくつろいで雑談しているところを
あっと言う間に駆け上って来たたった一人の暴徒に襲われて 殺されてしまう。
傍に刀を引きつけてもいなかった。
陸援隊の中岡慎太郎とともに、この刺客にやられてしまったのは
日本史の大きな痛手だ。

明治も下ったある日、一人の老人が死に際に告白する。

実は若い頃に賊だから殺せと上の者に言われて、ただ一途に命令に従ったが、相手が誰かも知らなかった。
実は、坂本龍馬と中岡慎太郎を殺害したのは自分だったと懺悔したらしい。これは当時としては大きく新聞の一面に出たらしいのだけれど、この時、佐奈子は、存命だったろうか....

佐奈子はこういう激動を生きた男性に心を捧げて、その重大事を聞くにつけて、どんな思いだったろうかと、いつも思う。

どうして唐突にこんな事ばかり思い出だされるかと言うと、この人達の足跡は、みんな秋葉原のスタジオ付近についているからだ。
 私の親戚も神田、蔵前、本所、浅草の辺りで八代続いた。
スタジオの傍の蔵前橋通り、私の祖母は蔵前小町と囁かれたらしいけれど、ほんの三代前でも、もう漠としてその人の歴史がよく分らない。

 秋葉原にスタジオが出来たのは、偶然だとは思えないのです。長く外国に行きっぱなしの私を、呼び寄せる何がしかの縁が、あの辺りにはあるのだなと感じます。
日本に住んでいた頃には、秋葉原なんて寄りつきもしなかったのだから....蔵前という字を見るたびに何となく郷愁を感じる私です。


●2006年02月15日(水)

高村光雲

昨年からずっと、この江戸生まれの彫刻家が気になって仕方がない。尋常を逸した気になり方で レプリカの阿弥陀如来まで手にしたりしている。胸が波立つ。

調べて行くと東京は下谷の生まれと言う。
仲御徒町の辺りらしい。
どうも秋葉原のスタジオの辺りは、私には色々と縁のある土地のようだ。

高村光雲の彫刻は、秋葉から程近い上野の西郷隆盛のブロンズ像が身近だ。
あの彫刻が完成するまで、生前の西郷を良く知る顕官たちの口出しが大変だったらしい。陸軍の制服がいいというのやら色々..
彫刻家は懊悩する...
故郷で狩りをしている姿がいいと言うので、最後にはそれに決まった。が、いざこの像が出来ると
西郷夫人が見るなり
あんりゃ、こぎゃんな人では なかとでした....(薩摩弁ちょっと記憶曖昧ですが)と、叫んだという逸話が確か 司馬遼太郎の調べた史実にあった。

子供の頃から偉い人にしてはつんつるてんでおかしいなぁと思い続けていただけのことはある。
西郷と言う人は、いつも威厳ある服装にやかましかったという夫人の説にほっとする。
そうでなくちゃ...

....で、光雲。
赤貧洗うが如しだったらしい。
伝記を斜め読みすると、岡本天心の強い勧めで上野の美術学校に教職を得るまで貧困が続く。
そういう中で次々と木彫をして行く。
もともと仏像彫刻家だ。
明治になって仏像がみんな捨てられ、焼かれると言う時代にずっと頑固に彫刻を続けた人だ。

彫刻刀は、正宗の刀鍛冶が作ったと、後年、息子の光太郎が伝記に書いている。

ああ、刀鍛冶がいたんだな、江戸の後期にはまだ職人は健在だったのだと胸が熱くなる。

一体全体、日本と言う国の偉い美術家はみんな裏長屋か何かから出ている。
驚くような鋭さで、11歳から丁稚を経て立派な彫刻家になって行くのだ。
1893年「老猿」をシカゴ万博に出品し、妙技2等を受賞している。秋葉のあの辺りから出て 飛躍する。

ああ、と又感慨に打たれる。

小学校のうんと小さい頃から弟子にやられる。中身は家事仕事にも追い使われる丁稚なのだ。
吹けば飛ぶような軽い、甘ちゃん育ちの私達なんかとは気骨が違う。

みんな10<11歳で、しっかりとした頭と心で生きて行くのだ
この時代の人達というのは。

日本という本当にみんな貧しかった国の、清貧の偉人達。裏長屋から出る芸術家達...秋葉原、神田、御徒町というあの界隈には、そうした江戸、明治の精神が生きていた土地なのだ。

この間の帰国の時にスタジオからタクシーで通りすがりに神田お玉が池跡という粗末な標識を見て私は絶句した。

神田お玉が池と言えば、あの北辰 一刀流創始の天才剣士、千葉周作、坂本竜馬のゆかりの地だ。ここに千葉道場があった筈だと長年思い続けていたのだけれど。見つけてみれば、ああ、何たることかと悲しかった。

涙がとめどもなく流れるって言うと、人は呆れるだろうな。
日本という国への 切ない私の思いだ。

光雲...又、脱線してしまった。
長野公演の後、タクシーの窓から善光寺に心が残りつつ
何となく駆り立てられるような思いに、これはどうしたことかな、と思っていたら、あのお寺に光雲が彫刻を残していると最近知った。

やっぱり...!!見に行かないと!今度こそ。

フラメンコとどう関係しているのかって?
そうですよね、よくこんな風に一人で悲嘆にくれたり、合点したり、亡くなった偉人を掘り起こしては、慕わしい思いに暮れるのでした...たったのそれだけのことです。

こういう人間なのか、外国が長くてこうなのかよく分らないですけど...読み流して下さい。

秋葉のスタジオを探していた あの岩本町のマクドナルドのビルの辺り、あの辺が私の心の故郷だったとは。

何とは知らずに、何がしかの縁あって引き寄せられたのかなと
変わり果てた殺伐たるビルの狭間で思う。





●2006年02月13日(月)

集中レッスン

公演後ばたばたしていて発表が遅れてしまっています。
ごめんなさい。
色々個人的なお問い合わせ、ありがとうございます。
皆さんの熱心、本当に嬉しいです。

しかし、忙しないですねぇ、あの帰りの飛行機の荷物がまだ行方不明だと言うのに....絶望的らしいです。
何年に一度くらいはこういうことがあるらしいですが、今年は私がクジを引いてしまったみたいです。

さて、夜に来れない、そのスタジオだと行ける、行けない、が多い三月なので 発想の転換で昼間というのを二日作りました。

昼間シフトの人、立ち寄りなら早帰りより出来やすい人、もともと本当には大した用の無いはずの家庭の方ー気を悪くしたりしてーなどご都合つけて下さいね。

もはや発表前に数人を数えています。ゆとりのある方はレッスン後に 少し私とお茶でもご一緒して いつもできない懇親をしてみてください。個人的にはお話したことのない人も多いですから。

秋の開校から一度も行った事のない表参道にも、お参りに行きます。
このスタジオを見つけて整えて、開校した生徒の皆さん、あらためて 天晴れなる皆さんの行動力に敬意を表しに参ります。

他のスタジオの皆さんも夏くらいには全パスで利用できるようになると思いますので、是非この機会に私と一緒に見学して歓声を挙げてください。
カッコいいイプサンローランとデイオールのお店を、毎度入らずに 高級感に浸って にこにこ素通りする楽しいスクールらしいです。(爆)是非、浸りに行きましょう!一階は和風喫茶らしいので煎茶と和菓子が出てくるのかな?と楽しみにしています。

では、下らない前置きをこの辺でやめて 内容です
.............
平日のクラスです

3/7火・昼11:00-12:30秋葉原  

3/8(水)13時〜14:00鷺沼 
参加者が習う物を決めるフリークラス=振り付けになってもテクニカ扱いでOK 決めかねる場合は、「なにもかもきっちり」の総テクニカクラスです。一人ずつ良く見て指摘のクラス

3/9木夜8:00−9:30表参道ブレリアデゴルペ

3/10金夜鷺沼8:00−9:30前回の公演のペテネーラスのタンゴ 「金曜の悪女」クラスです 是非なってみてください。もうそうだと言う方も今一度。

あとは土日の振り付けクラスです。

今回は公演の後始末や、健康チェックに時間が取られて
週間の夜クラスに出没できにくいです。どうして来てくれないの?と怒らないでね。
例えば秋葉原に朝の8:30頃居ます。
夜の皆さんのお勤め帰りの八時までずうっっっっと待っていられないのです。
行くのだけど とても待ちきれない。
どんなにみんながかわいくても、できにくい。
そういう理由ですので ああなるほど、と理解してみてください。
横浜は?はい、横浜生はまだゆっくり入門、のんぴり初級ばかりです。私の集中に張り切って出てきてくれる同じ顔が増えた辺りから行くように計画します。又は横浜生代表から要望を出してまとめてくれる自発性ができてからです。
他のスタジオに組まれるのは、会員の自発があるからです。

よろしくお願いしますね。

●2006年02月09日(木)

クラシコエスパニョールについて

読んで字のごとし、クラシックなスペイン舞踊。
直訳するとこうだ。???そう、そのままの疑問の分野なのです。

スペイン舞踊を三つに分けると、
言わずと知れたフラメンコ
ほとんど見る機会のない、エスクエラ・ボレーラ
そしてこのどちらにも入らない、なんだかオーケストラかテープで踊る物が、とにかくクラシコエスパニョールと呼んでしまえ、そんな感じです。

何をもってしてこう呼ぶのか、のアカデミックな根拠がありません。

聖歌隊の音楽で振付けてもクラシコエスパニョール
一昔前の歌謡曲で振付けたのもクラシコエスパニョール
エスクエラ・ボレーラのできない怪しげな一座がお茶をにごしてやるものもクラシコエスパニョール
フラメンコではないスペイン舞踊は
みんなこれに入れてしまいます。

人はみんなクラシコエスパニョールと呼ぶのです。

着物姿でいると あれは芸者だと囁かれるみたいに。

この曖昧さが この分野を硬派なものにしてくれないのです。

フラメンコはフラメンコ、どこから切ってもすっきり切り口はフラメンコだけれど、この舞踊だけはなんだか猥雑です。

この分野のアーティストはバイラリン、もしくはバイラリーナと呼ばれます。偉大なるグラン・アントニオ、先ごろ亡くなられたアントニオ・ガデスもバイラオールとは呼ばれません。

この二人を代表してクラシコ系の踊り手と思うがために
クラシコエスパニョールが素晴らしいという輝きで見えるという説も立ちます。

あの人達は立派にフラメンコでした。
前者はマルティネーテを始めて舞踊として踊った人だし、後者はつまりオールマイティの踊り手でした。ホタという北部の跳躍の凄い踊りも、胸がしめつけられるように上手かったらしいです。
非ジプシー系の天才舞踊家であるがために バイラリンと呼ばれたのだと思います。

この人達を頂点としていっぱいいんちきなクラシコのアーティストがいて、この手のバイラリン、バイラリーナはフラメンコと呼ばれずにクラシコと呼ばれるのは、フラメンコが下手だからです。フラメンコの渋い素敵な感じが出ない。

主にこういうアーティストと出し物のために何となくクラシコがうらぶれた印象を強く残すのかも知れません。
それから変なテープで踊る物はみんなクラシコと呼ばれてしまう。どこまでをクラシコと言うかがはっきりしません。

テープ、これも問題です。
つまり、イベントをするのに100人編成のオーケストラを連れて公演できないのです。予算がありません。一人一万円しかもらわなくても100万円。一回練習するのに100万円です。
クラシックバレエのソロと同じですね(このすさまじいばかりのお金のかかりようは フラメンコなんて本当にエコノミーと言えるくらいです)ですから悲しいかな、クラシコはいつもテープです。これが今一つ、安物の印象を与えてしまいます。

生の演奏は生身の癖のある人間の集まりでやりますから
それは大変です。でもなんだかんだ言っても生でやれる
最小の楽団で編成できるところが フラメンコの魅力であり
高級なところなのかもしれません。

人の心に訴えるには、やはりこの違いがとても大きいのです。

エスクエラ・ボレーラについては、私の敬愛するバレリーナがこう言いました。「あの素晴らしく美しい、難しい、そして誰も見たいと思ってくれない芸術」言い当てて妙です。

ほとんどクラシックパレエだと想像して間違いないです。しかも随所に熟練のカスタネットが星くずのように輝かないといけないのです。物凄く難しいのに 人は見るならフラメンコ、と思ってしまうがために栄えません。

●2006年02月06日(月)

老人は歌う、聞け!若人よ!!

長女の水泳娘が過酷な合宿から帰るなり携帯を差し出す。
ちょっとこれこれ....
慌てて録音を出そうとする。

しわがれた声で
「ではここに居ます若者達のために 一節旅の慰みまでに」
とか言う前置きとやんやの喝采で、老人が歌う。

聞き耳立てて集中すれば ほどなく
その上下の調子も鮮やかに 老人は老練、
と納得させるような巧緻さで
ファンダンゴ・ナトゥラールを切々と歌い上げた。

歌い始めで「いゃあ、本物だぜ」というひそひそ声も聞こえた。

途中で若者のハレオが続く

「へえーーー腐っても鯛、さすがスペイン人はハレオが上手い。水泳の嬢ちゃま、坊ちゃまでも」感心してしまった。

...しかし...昔の人は上手い!!
微妙な節回しが本当に丸みを帯びて上手い。

ノエリ達のスペイン選手権一行と、老人の冬の旅行団体が
とあるグラナダの雪深い田舎レストランで交差したらしい。

若くてぴちぴちの団体は、トレーニング姿も初々しい
輝くようなスポーツ団

一方、70歳以上の老人ばかりのにこにこ、しわしわの団体は、目を細めて「おお、おお、何かの大会ですか?」と言葉を交わす。

そこで爺様、婆様に優しいスペインの子供達は色々とお話するうちに、老人の中にプロ引退の三人のカンタオールがいることを発見。

老人達が、では、お別れに一節、この若者達にフラメンコを!となったのだという。

スペインの75だの8だのの老人は日本人よりずっと老人に見えるから、みんな子供達はートレーナー達もーそんなに期待していなかったらしい。

ところが、朗々たる大音声、昔取ったなんとか...
水戸のご老公の印籠が出たように「へへぇーーー!」

どうもそんな図が携帯から測られました。

上手な歌い手が三人、三様にファンダンゴを旅のはなむけに歌うのでした。

「傍でお婆さんが泣いてた。奥さんだと思う」

おお、おお、そうなの、そうなの、いい出会いだったのね。
麗しい旅の思い出だわね。

姿も見えない老人の一行に、私は心からの健康とお幸せを祈った。
この心優しい水泳の荒武者達にも、愛情を感じた。

そんな携帯にとっさに録音して持ち歩くくらいなんだから
あんたもまんざらフラメンコ嫌いでもないんじゃないの。

ママ達に聞かせてあげたくて録音したんじゃないの!!

あら、お見それしました、ありがと。

●2006年02月03日(金)

球技が駄目

すわっちょの話は続く...
私はテニスが駄目だったのだ。

どうしても球がラケットに当たらない。
テニス部の部長が「緊張しないで、さ、ここから打ってご覧」
本当に二メートルくらいの距離に縮めて投げた。

打てない。

そ、そんなぁ、とばかりに一メートルに迫って投げる。

これも打てなくて、私は退部してしまった。
一方、美少女のすわっちょは
テニスコートの白い天使になった。

....うーーーーん、あれは...

至近距離に迫られた圧力と
全テニス部員が一緒に人垣を作って
固唾を呑んで注視していたのと、
校舎の二階と三階から男子がみんなして見ていたのとで
打てなかったのか、
本当の阿呆で打てなかったのか
今となっては知る由もない。

バレーボールもサーブすると手首の辺りの血管が切れて
赤や青のあざが激しく水玉するのに辟易とした。

ドリブルしてみんなでやたら追いかけるバスケも嫌い。

なんとかやれたのはお休み時間のドッジボールだけ。

抜群の成績だったのは走り幅跳びと高飛び
跳び箱とハードル 難なくかもしかの如く。
短距離走も弾丸の如くの速さ。

マラソンは元気が続かない。

結局、生れつきの特技だけでしか生きられなかった
加工の利かない人間の、その初期って感じですねぇ(笑)

●2006年02月02日(木)

幼馴染からクレーム

アカデミーに「すわっちょ」から電話が入ったらしい。

かつて12歳だった私達は、幼馴染と言えるのだろうか。

この人は、どう見てもハーフとしか思えないとびきりの美少女で
不自然なくらいの長い睫と−誰かが測ると2.5センチあったのだー、茶色い大きな美しい目と
抜けるような色白に、ばら色に輝く頬。
セーラー服に白いリボンがはためくと、辺りがハレーションになるんじゃないかという撮影向きの人だった。

それだけではまだ足りないとばかりに
腰まで届く茶色の長い髪の
まるで少女マンガのヒロインみたいな女の子だった。

心根の優しい、純情な人柄で、成人式をいくつ過ぎても
同じ善良な人だった。
普通はこういう暖かい人はこんなに端麗な容姿ではない。
そこが、何とも不思議なアンバランスの人気者だったのだ。

思い出しただけで胸に暖かい灯火がともるような人だ。

中学もその後も、ここ一番と言う時にいつも色々と世話を焼いてくれる親切な主婦になって行った。
私の留学の前後でも 色々と小まめに世話を焼いてくれた。

幼馴染の不思議さで、思い出す時は必ず、あの最初に知り合った頃の美少女だったすわっちょの笑顔なのだ。
どうして数年前に会った彼女の顔が思い浮かばないのだろう。

「公演の知らせが来なかったじゃないの!!」
「みんなひがんでるわよ、同級生一同」

つい最近、私の話題でみんなが口々にクレームしたと言う。

もう同窓会名簿など100年前くらいに失くしてしまっているし
ぼろぼろの手帳にある幾つかの住所など、はなから信頼できない。ーそれだけの理由だー

ついでに私の思い出話に花が咲いて
「アッコが陸上部だったって事、みんな知らなかったわよ」と言う。
「え!?私、陸上部だった?」

「そうようーーー、嫌ねえ。普段は何にも訓練してないで大事な大会になると突然呼び出されてさ、出場する部員だったじゃないの。
なんか、なよついた足腰でさ、あんな高飛びできんのかなって思ってると つつつーーーとにじってあっと言う間に飛んじゃうのよね。あなた、そういう不思議な部員だったのよ」

人間の記憶力の曖昧さというのはこうなのかと 私は大笑いしてしまった。
自分の事なのに 言われてみるまで意識にないし、記憶にも薄い跡しかないなんて。

なよついた腰つきって言うのが写実的で 可笑しい。

跳ぶ競技になるといつも陸上部からお呼びがかかって
駆り出されたのだった。で、えい!と跳ぶ。

何だったのでしようねぇ、あれは....???

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