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2008年02月のセビリア発信・つれづれ草
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●2008年02月28日(木)

英才の次は
胆力について


人の才能の不思議は語っても語りつくせないけれど
人の肝についても これは又別の魅力だ。

キモ
肝が据わっているとか
胆力があるとかいう表現がありますが
要するに臆病ではないということですね

勇気がある
大胆
行動力があるなどですが
これもやはり生れつきに負うようです。

どんなに頭が回転しても
自分の出した答えにそって行動に移すかというと
そうでもなくて 頭と思い切りは又別のようです。

ここで人生が分かれると言えます。

先日、うちの上の娘と話していた時の事です。
この水泳の選手は ある日 幼児水泳の指導者としての
実習を担当させられたのだそうです。

小さな子供達がプールサイドに並び、
選手のうちの娘が これから水泳のてほどき、となった時のこと。
色々と説明して、まず一人を抱いてプールにそろりと入ったのだそうです。
すると なんだかポチャリと言う小さい水音はしたのだけれど
見回しても誰も居ない。
おりこうさんの子供達はさっきのようにプールサイドに並んでいます。

「???」

抱いている子供を例にして
こんな風に、とか水泳の要点を話し始めた途端に
上に立っている女の子の一人が
「セニョリータ、ペドロ君が出てこないです」
とつぶやいたそう。

え!!??

よもやと思って水底に目を凝らすと
そこにペドロ君が沈んでいたと言うのです。

「小さい子って こっちが驚くと初めて泣いたりするでしょう?
だから慌ててこの子を引き上げたんだけど、偉いねぇ!!
泳ぎも知らないのにプールに飛び込みをした勇敢な子は
お姉さんはまだ一度も見たことがない!!とまず褒めたの」

そうしたらどうした?

水を滴らせながら えへへと得意に笑ってた!!
早く水泳仕込まないと大変だと思ったのは勿論だけど
いきなりプールにぽちゃりと飛び込むっていうのも
あんまり聞かない。
将来が楽しみな豪胆な子だなと 笑いました。

スペインだからって訳でもないと
思い出したのが 私が子供の頃に向かいの家で起きた事だ。

向かいの二階に雄二君という かわいい男の子がいて
これがやっと三歳になるかならないかなのだけれど
きかん坊でお母さんは手を焼いていた。

そんなに悪い子だったら、とある日部屋に閉じ込めて
外から鍵を閉めてしまった。

向かいの家に居た私がドスーン!!と言う地響きを聞いて
ベランダに走り寄ったのと
小さい男の子がむっくりと地面から起き上がるのが
同時だった。

その小さな後姿は 何の動揺も無しに
しっかりした足取りで立ち去ったのでした!!
スタスタスタ....

かつて今までに何度 あの姿を思い起こしたか知れない。
何て言ったって 二階の窓からですよ、三歳の子供には
物凄い高さに見えるはずなのだけど...飛び降りた。

あの 母親が驚き呆れて罰も思いつかなくなってしまった
三歳児は 一体どんな人になったのかしらん。

決然と何事もなかったかのように むっくりと起き上がった
あの姿!!
豪胆な歩きっぷり.....くくく いやぁなんと言うか 笑
逸材てす。

●2008年02月26日(火)

スポーツドリンク

沢山の健康食品とともに
スポーツ関連の薬や飲み物もとても多い。

日本に帰るとこういう素晴らしい発明の
これまた手の込んだ広告に胸が高鳴るけれど
ー今にも筋力百倍、となりそうな気分にさせられるー
あまりの多さに どうしようもなくなる。

化粧品の陳列棚に行くと
説明書きだけでうんざしてしまうくらいに
量としては 膨大だ。

そんなこんなで
信頼できるトレーナーや
鍼灸師からの特別のお勧めが無い限りは
もう何も信じなくなっていた。

そんなある日、
こんなお話しを伺った。

ある初老の女性が
膝を痛めて どうしても治らない。
外科手術をするしか手が無いということになった。
半月盤がどうしたとか、軟骨が磨り減ったとか
そういう症状だったと記憶しています。

この方はスポー関係のご主人がいるので
そのスジから軟骨を再生するとか
潤滑良くなるとかのアメリカのコラーゲン関連の
飲み物を推薦されたそうだ。

どんどん飲んでいたら
一月して痛みがなくなりかけたというのです。
診断すると 良くは見えないけど
手術まで一か月あるので 術前にもう一度検査しましょうということになったらしい。
奥さんはどんどん飲み続ける。

するとさて手術と言う前の検査では
うっすらと軟骨が出来かかっていたというのです。

それで手術は取りやめになって
奥さんは飲み続けて すっかり元気になってしまった、
と言うお話。

事、骨とか軟骨とかになると
近代医学で出来る事って本当に無いらしい。
切ってつなげるとか
異物を入れるとか
その程度しかこの分野の医学はできない。

こういう遅れた医学分野では
飲み物とか錠剤の本当に優れたものは
活躍するのかも知れない。


アメリカからの取り寄せだというのは聞いたのだけど
物凄く難しい名前なので失念してしまったけれど
今度是非、又伺って 名前を公表しますね

まずは膝とか腰でお困りの方
だめもとの手がまだあるようです。

では、良い一日を!

●2008年02月25日(月)

スペイン 春

ここ数日 雨降りで
もうずうっと晴天続きで水不足、風邪の蔓延だった
スペインも ようやく一息入れたところだ。
それでもまだまだ水不足だそうで
スペインの砂漠化は 結構深刻だ。

それもその筈 ちょっと降っただけで今日はもう
大晴天だ。
せっかく新調したコートも全く出番が無い。
朝晩は厚着をして昼から初夏になって
油断すると風邪ひいてしまう、と言うパターンだ。

陽射しがカーーーーン!!と明るくて
原色が着たいアンダルシア人の気持ちが良く分かる
シックな色がなんだかこっけいになってしまうのだもの。
これだけピーカンに明るい 外気に居ると
ショッキングピンクが着たいっていう 日本ではあまりならない気分になる。

今週末からヘレスでフラメンコフェスティバルだけれど
ここセビージャに来ている数人の私の集中レッスン生は
めんどくさい。パス、なんて言っている。

まあ、あの劇場がはねてからの大変さを考えると
分からなくもないけれど...

ビジャマルタと言う劇場は え?というような
細道の街中にある。ここがタクシーが全然通らない。
観劇が終わってから 本当にヘレスというのは田舎なんだなと思い知る。
私は自分で車を転がして行ったのが一回
帰りに立ち往生というのが一回あった。
立ち往生でどうやって活路を開いたのかちょっと思い出せない。
知り合いに出会って連れて帰ってもらったのかも知れない。

自分の車で行くと 又これが留めれなくて苦労するのだ。
泊まりで行かないと苦しいかもしれない。
でもセビージャまで高速で一時間かからないのだから
泊まりたいとは思いにくい。
でも ヘレスの高速で車が故障して世にも辛い思いをしているのでなんかあの方面に行くのが怖い。

外国から行く人達は
朝まで夜明かしして一番のバスだか電車で帰ってくるという手もある。お友達と行けば まあ、それも良しではないでしょうか。

苦労してヘレスに行かなくても
長期滞在していればセビージャでやる人達ばかりだから
まぁ 気長な留学生は そっちを選ぶのかもしれない。
最近のフェスティバルは土地のフラメンコ通が少なくて
外人がいっぱい座っているので
粋なハレオ一つかからないし
私としては ぞっとしないというのも本音かなぁ...

●2008年02月22日(金)

英才について

イスラエルのお話しを読んで
ある音楽家の方からお手紙が来まして
クラシック音痴の私としては
本日は とても勉強になりました。
以下、抜粋します。


.....(イスラエル)なるほど。
一人のアーチストの成長の過程を知るというのは貴重で興味深いですね。

スペインだけじゃあなくって日本でもこういう人はいますよ。
たとえば、クラシックでは
五嶋みどりさんとか。
すんごいですよ、彼女のお話は。

彼女は10歳のときに、バイオリニストであった母がこの子は天才であるとNYの今もうなくなって数年たちますが
ドロシー・デュレイという先生にテープを送って、ぜひいらっしゃいといわれて、
父親は、あんた親バカでっせ、といったので、離婚してまで娘を連れていったんですよ。

それで1年もしないかのうちにNYフィルとデビューで、コンサート中に弓の弦が切れて、10歳の子供が動じずに
コンサートマスターから弓をもらい(ソリストのバイオリンに何かあったら、コンサートマスターからもらい、
コンサートマスターはその部下から、ってきまりになっております)とかアメリカの教科書に載ってるんだから!

彼女の弾く演奏聞いたら、ほんっとにぎょっとするほどのレベルですよ。
もうプロで楽器やめたくなっちゃうような!
もう言葉では何とも形容できん、という感じ。
だから天才ってのはどこの国にもいるんですよ。別に外国だけにじゃなくって私たちの国、日本にも。
..............

ここから発展してまたまたとても面白い
芸域の話しになったのですが
五嶋みどりさんには 更に天才の弟さんがいて
日本では10年も番組が追っていたというので
知らない人はいないのかもしれないですが
どうですか、皆さん。

あんまり有名過ぎて
何よ今更って感じでしょうか。

私は、お母さんの凄さに興味がどどぅっと傾いたのですが
ここ近年の日本人の海外での活躍ぶりには
瞠目しますね。
近年ってわけでもないかな。
ずっといましたね。

明治の初めの津田梅子なんかは凄いですものね
八歳で国費留学生として親元を離れるというか
縁切りのようにして留学しますね
日本史始めての留学生です。
悲壮感が漂います。
いたいけな小さな女の子としての写真が
胸を打ちます。

さあ、皆さん、今日も頑張って下さい!!

●2008年02月21日(木)

偉大なるアーティストとなるまでのプロセスについて


{イスラエル・ガルバン、、おすきですか?
彼のふつうのフラメンコ見たことないので、ふつうのを見てみたいなあ、と思いました。}

こういうお手紙来ましたので
ここでお返事させていただきますね。

この方は イスラエルのいわゆる作品物の舞台には少し辟易としているようで

「パストラは好きだけど、お兄さんもすごいのはわかるが....」

と言っています。

イスラエルは 私の意見としては
スペインが誇る最高の踊り手で
彼の前後に人が居ない、というくらいに
私は心からの敬愛を感じています。

でも多分、大人になってからの彼しか見ていなかったら
ここ近年の長い作品舞台からでは この気持ちは培われなかったかと思います。

私がスペインに渡ったすぐの頃に
イスラエルは今の私の娘より小さい小学生でした。

取るに足らないネズミのように細くて小柄な 
なんだか貧弱な少年で
ホセの肉付きのいい体型とは似ても 似つかぬ
か弱い印象の子供でした。

線が細くて 
鼻の脇にちょっと青筋が出ていたかもしれないです。

母親似なのかなと思ったくらいに 
小さいやせぎすの小学生でした。

この子が
親が教えている教室に
かばんを提げてただいまーーーーと帰って来ます。

家には行かないのですね、教室に帰って
そのままかばんを開けて宿題を始める。

うーーーんと、
えーーーと、とエンピツなめながら
首をひねって考え考え 踊りもちらちら見ながらそこにいる。

小さい小さい教室で 10人いると息が詰まりそうな
そういう下町の取るに足らないような教室でしたが
物凄く繁盛していて 
イニエスタ・コルテスとかマリアデルマル・ベルランガとかが
出たり入ったりしていました。

いつも若い女の子達でいっぱいで 
ズバ抜けて大きい人がいるな
と思うと それは外人だったりして
ごたごたに人がいて、狭い教室のあっちで初心者
こっちで今夜タブラオに出る人がおさらいしている。

そういうごたまぜの中に小学生イスラエルが
算数か何かやってました。

お父さんのホセは 生徒を見ながら
パルマをたたいたままでイスラエルの書いた宿題ににじり寄って来ては検算して
間違っていたりすると瞬時にして 
ばしばしばしっと子供の頭をはたいて
ここは こうだろ、この!!みたいに言って 
又生徒のほうに戻っていく。

私に見られてしまったイスラエルは 照れくさそうに頭を掻いてえへへーーーなんて笑って
またエンピツなめなめ宿題をしていました。

又、ホセが怖い顔であごをしゃくると
イスラエルは宿題を置いて すぐさましゃくられた方にいる外人の傍に駆け寄り
彼女のできないシギリージャを丁寧に教えてやる。

なんだか教わっている人の身長の半分くらいしかない子供に見えたものです。

小さな足で難しいリズムをかっきりと打ち出して 教えてました。
一通り 相手が飲み込むと 又、元のイスに戻って宿題の続きをやるような
そんな風景を 私はいつも思い出します。

小学生で多分10歳くらい。

あの頃イスラエルは漫画のねずみのように
華奢な子で、この猥雑な教室の発表会になると
ロペ・デ・ベガ劇場で 主役として 
物凄い大人も顔負けのマルテイネーテを 
バストンで踊っていたのを くっきりと思い出します。

アントニオ・ガデスの決闘シーンのようなのを 子供同士でやっていました。
ただし、足はガデスの10倍は難しいものをやっていました。

それは大人のミニチュアのようかわいらしくて面白かったですが
決めのあたりには 子供ながら心が燃えて 
毅然たる面持ちは
観客のニヤニヤ笑いを直ちにやめさせて
本気のオーーレ!!を心からの敬意で叫ばせる 渾身の演技でした。

身丈が小さいというだけで 
このまま世界のどこの劇場でも通じるだけの
素晴らしい才能と技術の完璧さが もう この年頃にありました。

心からの感銘と衝撃を受けずにはいられない子供でした。

スペインの凄さは これだ。

こういう親を持った子供の
親を超えた演技が出てくる。

これこそ スペイン大物アーティストの子供時代と
芸の成長過程なのだと
私は心に深く刻み込んだのでした。

私の敬愛してやまないイスラエル
彼の分厚い芸域は、10歳でフラメンコのありとあらゆるものが
完成していた、
そこから始まっているのです。

生き証人として 断じて素晴らしい彼の全芸歴を
私はいつも心から祝福します。






●2008年02月20日(水)

フラメンコの味の出し方


よくフラメンコのあの素敵な感じが出ないと
お手紙いただくのだけど
昨日も 自分の姿を鏡で見るたびにがっかりするという
ちょっと悲観的なのが来ました。

こんなのは全国に共通かなというくらいの
国民病的 フラメンコの悩みなので
そんなのは大丈夫、みんなの共通の悩みです、
というのでくくっとしまえるくらいだ。

ただし 本人は ああそうですか、とは行かない。
益々暗い淵に追いやられてじくっとなる。

あのふっきれた素敵な持ち味はどうしたら出るのかな
というのは素朴な質問だ。

習っている文字が
見ながらでなくて暗記ですらすらっと書けて
慣れて
逆立ちしても書けそうな域に達すると
自然と立派に書ける
お習字みたいなものだ。

人の事を脇目で盗み見たりしないで
宇宙に自分一人だ、みたいに楽チンな気持ちで
振り追いもせず
全部心で描くことができるまでおさらいしていると
その時に初めて なんかすらすらっと気持ちよく踊れます。

ここですよ!!

わっと喜んだ その喜びが終わらないうちに
ここを先途と踊りこむのです。
すると素晴らしく身も心も軽く踊れて
ああ、初めてこの境地に来れた!!

この日があなたのフラメンコの一日目です。
やっと自分に寄り添ってくれた証拠の一日目の
目出度い門出です。

それからこの門をしばらくは
出たり入ったりの出戻りを経験して
あとはずずうううういっと中に入れます。

ここからの道は随分と楽しく
ああ、この日の来るのが楽しみだったんだなぁ

そういう幸せは
始めのちょっとした度胸と努力で得られます。

良く言うことなんだけど
埋立地を作るときは 間髪いれずに
どさどさっと砂袋を惜しげもなく投げ込まないといけない
という あれです。

一度せき止めたら あとはそうはしんどくないです。

これは全ての道に共通の真理だと思うのです。
砂袋はケチつては駄目です。

幸せの鍵はここなのです

どうでしょうか 少しは楽になりましたか?
是非お試し下さい

●2008年02月18日(月)

タラント

初めてタラントを踊った踊り手は誰なのかと
読者からメールが来たのでお答えします。

最近、みんなメールばっかりでちっともBBS活用してくれないので お返事が大変ですから ここに載せますよ。

タラントは 始めがカンテです。
無伴奏で歌が先です。
次に伴奏がついて歌とギターになりました。

ですが まだこれは歌だけのレパートリーと思われていたので
踊れるとは 誰も思いませんでした。
それに皆さんもご存知のように この曲は伸び縮みが激しいですし つかみどころがなくて踊れる曲とは言いがたかった。

「あら、これだって踊れるわよ」と果敢に挑戦したのは
フェルナンダ・ロメーロだったと言われています。

私はスペインに渡った最初の年にこの方とお近づきになるチャンスがありました。
まだ十分若くてー50歳行ってなかったと思いますー
グループを編成して仕事をしていたようでした。

きりっとした美人で
若かった頃の写真がグラン・アントニオの写真集に入っているくらいなので 余程の実力者だったと思います。

昔のフラメンコでは珍しい足の踊り手で
男装をしてジャンプなんかしてましたから
今で言う ジェルバブエナみたいだったのだろうなと思います。

リズムが良くて 足が男並みに俊足。
初めてタラントを踊って 世の中の評判を取った踊り手です。

初めて、というのは何を基準にしているのかと言う疑問が残ります。誰かが人知れず仲間内で踊ったかもしれないし
田舎のフェスティバルで一日前に踊った人がいるかもしれないからです。

私はこう解釈します。
「ほぼ同じ時代に タラントを踊った優れた名のある
あるいは大変に素晴らしかったのでその名がとどろいた踊り手」
という意味だと。

フェルナンダ・ロメーロは
後年、夫のレコードスタジオに何かの録音に来ています。
去年くらいだったような気がします。(この、曖昧さ!)
食卓の話題に出たと思うからですが
食卓の話題に年中 ちらちら録音の話が出るので
記憶がごたまぜになります。

確か、このタラントの踊り手の孫娘が
今売り出し中のポップ歌手か何かでした。

ローレ・イ・マヌエルの娘、アルバ
ぺぺ・デ・ルシアの娘で パコデルシアの姪のタマーラ
これらの素晴らしいアーティスト達の次世代が
ポップフラメンコか何かでおおいに売り出しているようにです。

アーティストの看板が途絶えないで続いて行くのは
何かほっとします。

●2008年02月14日(木)

フラメンコセラピー

フラメンコがスペインの熟年に人気だそうだ。

フラメンコの腰をゆるく使ったり
手をくねくねしたり
手首回したりっていうのは ゆるい良い運動で
お年寄りにもいいのだそうだ。
足も そんなすごい事はしないで
昔風のをやっている分には とてもいいらしくて
60,70代のお爺さん お婆さんが
いっぱいの教室の様子が 昨晩のニュースで出てきた。

これをやると とっても幸せで楽しいとお婆さんが言うし
お爺さんが先生も好き(?)と言う あはは

自分も結構な御年の先生が出てきて
フラメンコ・セラピーですと言う。

子供に続いて
熟年もゲットなのだな、と思う。

エアロビックがすっかり廃れてきた昨今
ヒップホップってわけにもいかないし
ハイヒールが辛い人は社交ダンスも今一つだ。
やっぱりフラメンコが一番無理の少ない
いいダンスかも知れない。

腰痛の人は特注にしてヒールを落とせば
全然無理がない。

もしも医者にフラメンコは無理と言われたら
本当にこの医者に知識があるか疑ってみる必要がある。
激しい踊りって言う先入観だけなんじやないかな、とか。

足ばりばりっていうのは
フラメンコの上級なんだから
ほとんどの趣味の人にはまだ達してない領域だ。

プロと上級の手前の人には
全部お勧めだ。

皆さんも楽しく、自分の選んだダンスを極めて下さいね
フラメンコは体と情緒にとてもいいですよ
お勧め!

●2008年02月13日(水)

スペインの微妙

子供を持って初めてスペイン人がどうやって育つのかが
よく理解できるようになった。

それまでの私達はやはり異邦人で
この国についての広範な知識はあっても
スペイン人の生涯がどうやって形成されていくのかまでは
思い至らなかった。
当然だ。

日本の方がずっと教育は進んでいて
スペイン人の学校は適当でいい加減みたいな思い込みが
ずっとあったのだけど
実際に子供の学校教育を
我が身に迫って体験してみると
これが中々厳しい。
日本どころの騒ぎではない。
だからいっぱいドロップアウトしてしまうんだな、ということも分かった。
小学校で諦めてしまう人もなるほど多い。
どんどん落第させるからだ。
これだったら日本人の子供の何割が生き残れるかな、とおもわずにいられない。

次が中学だ。
これもどんどん落とす。
数学で苦労した自分の中学時代に思いを馳せると
果たして自分だったら大学まで生き延びれただろうかと怪しい
冷や汗を覚える。

更に高校だ。
高校生はもうエリートなのだ。
高校を卒業している人は 何ていうか
日本の大卒より威力がある気がする。
これがとても難しいのだ。

高校にして文系と理系にもう分かれないといけない。

そうして文系を選ぶと
ラテン語、ギリシャ語が加わって
これが本当にすさまじく難しい。
古代ギリシャ人、古代ローマ人の言語なので
今のイタリア、ギリシャの言語ではないのだ。
古文も古文、オデュッセイアとかを原語でやる。

私はこれをクリアーできただろうか?
うーーーーん、厳しい
うちの上の娘が高一なのだけど
落第しないで来年卒業できるかなと
いつも恐怖におののいている。
スペインの高校は二年。
でもスムースに卒業できるのが本当に僅かしかいない。

その上に、ろくな補足教材も参考書も売っていないので
授業が全てなのだ。塾も当てにならない。

こうやって大学生になった人達というのは
恐ろしく勉強した人達で
スペインの大学は バイトなんかする暇がないくらいに
またまた厳しい。

しかも五年間。四年制ではなくて。

小さい時に本当にこんなにやるつもりの無い子は
すぐに大工、左官、工事、技師の道に行ってしまって
さっさと働く。

15歳くらいでもう アーティストになって世界を回るのも
こういう教育事情があるのでー23歳まで遊ぶ間もない勉学地獄ーうんと早いうちに二足のわらじは止めてしまうのだ。

これはこれで すっきりしていていいかもしれないと思ったりする。
だらだらと学校に行くとろくな人間にならないと思うからだ。
実社会に出て 健気に稼いで人生を知るっていうのは
清潔な行き方に違いない。

志も無いのに上の学校に行こうとして
春の通り過ぎるのも気付かずに青春を無為に
終わらせるのも勿体無い。
自分の特性に合った道を もう15歳を境に
決めるのも 良いことかもしれないと思う。

●2008年02月11日(月)

マリソル


スペインの国民的人気女優のペパ・フローレス
芸名をマリソルと言い、
それは物凄い天才少女だったらしい。

日本にも公演している。
私が子供の頃にニュースに出て
その瞬時のフラメンコポーズに恍惚と憧れたのを
覚えている。

この人は先ごろ亡くなったアントニオ・ガデスの奥さんだ。
ボダ・デ・サングレで子守唄を歌っているので
ああ、あの人か、と合点する読者もいると思う。

10歳かそこいらでフラメンコを歌ったし
ホタ、それこそあらゆる郷土民謡が歌えた。
しかも踊れた。
フラメンコ系のタレントとしては珍しい青目金髪なので
異色の光彩を放ったらしい。

かわいらしい天才少女は 
幼少時代が無かったといわれるくらいに
映画に舞台に活躍する。

長い不妊症に苦しんで
始めの結婚を破綻させるくらいに
彼女は妊娠に憧れ、そして苦しんだらしい。
一節には 自殺を考えていたという...

アントニオ・ガデスと結婚して
次々に三児に恵まれたので
実質芸能界から引退してしまう。
その引き方が あまりに忽然としていたので
私には彼女のそれまでの苦しみと子供を授かった奇跡と不安なまでの喜びを察知する。

以来、山のようなオファーがあったけれど
決して戻らなかった人として有名だ。

ガデスが亡くなって 近年のマリソルが
ニュースに映ったけれど
スペインのパパラッチは
これ以上は踏み込まない。

なんだかほっとする。
国民的英雄の天才女優だったけれど
その60歳の現在を荒らしまわったりしない所に
マスコミの彼女に対する思いやりというか
尊敬の一線を感じて 嬉しい。

私の普通の市民としての生活を尊重して下さい
私を家族とともにそっとしておいて。

マリソルは あれほどの人気を得た彼女の
半生を もしかしたら今の普通の幸せほどには
大事に思っていないのではないかなと 思った。
夢の中の出来事のように 儚い遠い昔なのかもしれない。

●2008年02月07日(木)

セビリア 晴れていて寒い

ここの国の朝晩の気温の低さ、それから数時間で突然上昇する
気温の温度差の激しさは 
なんか国民性に通じるなと思う。

まさにフラメンコ気性だ。
イントロー盛り上がりー退場
みたいな。

お見舞いメールどうもありがとう。
きれいなお花のカードも楽しかったです。
心優しい読者の方々、心が温かく慰められます。
お返事してなくてごめんなさい。
このエッセイ更新でお許しいただきたいです。

決定的に重症ではないのだけど
胸がゼロゼロして中々治らない。
筋トレに行けるとは思えないので
自宅待機しているのだけど
何か仕事しようとしても 胸は苦しいしセキは凄いしで
根気が続かないです。

読書っていうのもできにくいから
真面目に構えないで
だらだらっと薄目で行を追う。
長くはできないけど ただの病気で打ち負かされているよりは
マシだ。
今日を少しは生きたって感じにはなる。

日露戦争のロシア側の戦艦に載っていた
機械師の手記を読んでいる。

この人は戦死してしまうのだけど
その愛妻が日露戦争後に夫の手記を出版してしまうのだ。
この亡き人の日記には
どんなに艦長が無能で非情だったかが延々と書かれているので
世界中の歴史家に読まれることになる。

日本でも日露戦争の信頼できる資料として
これは役立っているらしい。

心ならずして駆り出された戦士の悲惨さが
良く分かる。
日本では ロシアの艦隊が攻めてくるというので
それは大変だつたけれど
この戦艦の乗組員達は 嫌々参加していたし
戦意もなかったと言って良い。

歴史というのは
冷静に判断できるまでに100年はかかると言うけれど、
敵味方入り乱れた戦闘では 何が起きているのか
混沌として分からないものなのだ。
敵側にも苦しい事情が沢山ある。
それは100年を経ないと 分からない。

ああ、生きとし、生けるもの...
私達の人生は ほんの一粒の霧の粒子でしかない。
なんと苦悩に満ちた人間の歴史かと 感概深いです。

早く治してばりばり稽古がしたいです

皆さんも寒い日々だそうでお体大切にね。
今日も良い一日をお過ごし下さい...
 

●2008年02月01日(金)

王立舞踊学校その2

とんちき娘のせいで 早めに着いたら
なんだかやたらと旧友に出会う、王立舞踊学校でした。
私のスペインでの過去25年間くらいのバレエ仲間が
みんなここで教師をしている!!

驚きであります。

いっちばんどうしようもなかった人が
校長をしている。

この人が20歳かそこいらの頃の様子を
同じバレエ学校に通っていた私は、よく覚えているのだ。

独特のスペイン人体型で腰が大きくて太ももが太いから
どうしたってバレリーナの体型ではない。
本人はそれが分かっているから大きくてだぶだぶのTシャツを
いつも着ていてコンプレックスだった。

クラシックバレエの人に多いけれど
自分の果たせなかった夢がトラウマになって
後から出てくる才能のある人を助けない。

昨年、世界中のバレエ団で主役を勤めて引退した
素晴らしい天才バレリーナのトリニダ・セビジャーノが
ここに教授として応募したら却下したというのだ。

娘をここに入れている私としては残念で仕方ない。
その恨みがあるから 校長のマリソルを見ると
恨みの矢を1000本くらい打ち込みたくなる。

今までにどれくらい天才バレリーナが応募しているか知れない。
中々入れないのだ。
大奥の権勢を守るために。
お局マリソルは 地位を守りたい。

王立舞踊学校の正規の教授になると笑いが止まらないだろうなと
下賎な事をちらっと考えてしまった。
国家公務員だから 老後も安泰。
どれ、脚上げてみせてよ、とも言われないから益々安泰。
九月に始まって五月でお終い。
あとはバケーションだから 本当に楽。
天才バレリーナなんかに来て欲しくない。

そうしたら益々楽ってなもんなんでしょうね....
若い時にいじめて クラシックバレエを引退させておくべきだったな。世紀のいじめっ子になってさ。無念。




●2008年01月31日(木)

王立舞踊学校

昨日は 下の娘が舞踊学校の劇場で踊るというので
見に行った。
この王立舞踊学校は、1929年のイベロアメリカ博覧会の時の
それは立派なパビリオンを改装したものだ。

パビリオンというと現代のモダンな建物と勘違いするが
20世紀初頭のそれは まだとても古いロマンチックなドーム天井などを取り入れた お城のような建物だ。

舞踊学校には 広大な建物の中に
300人近く収容できる専用劇場がある。
客席は二階もある素敵な馬蹄型で、
天井から何から
マホガニーの分厚い木材にこれでもか
という程に彫刻がほどこされている。

舞台も本物の木材で 
大昔の映画に出てくるそれを彷彿とさせる。
なかなかいい劇場だ。

朝の10:00だというのでー勿論学校は休まないといけない。凄いですよね 平然と義務教育を休ませるー朝のハイウエイの混雑を見込んで 早めに出たりしてそれは大変だった。

なのに 王立の先生達に挨拶すると
「今から?」と怪訝な顔をするのだ。
「どうして?そこら辺に座っているわ」と答えると
「だって始まりは12:00からよ」
と言うではないか!!

2時間も待てる物ではない

おのれ、バカ娘を見つけたら
ただではおかないと 腹を立てる私だ。

どうしてうちのこの娘はいつもこうだろうか。

運動神経は並外れていいのだけど
あとは本当にとんちんかんで どうしようもないのだ。

もう、50人中多分下から二番目だろうというくらいに
ぼんやり うっかり、あっそうだった!の常習犯なのだ。

これが一旦踊りだすと 人が違ったとしか思えない俊敏さなのだ。このギャップが激し過ぎる。
家族は、みんな着いて行けないくらいだ。

仕方ないので ぶらぶらと向かいのマリアルイサ公園を
散歩していると公園内に ビエナル事務局を見つけてしまった。
おお、暇つぶしにちょうどいい、今年のプログラムでも聞いて
HPのみんなに発表サービスしよう、と建物に入る。

まだ何にも決まっていない、という返事。

それなのに 突然相手は私に興味を抱いて
私の何もかもを全部知らせろというのだ。
バイラオーラだとも明かさず、
ただの物書きだと言ったのに
一体、何?

不思議ですよねぇ...
情報収集に行った人間が
あっちにとっつかまってどうする?あはは

中身の濃い朝でした。











●2008年01月29日(火)

ゲホゴホ日本史早見表

子供が学校の歴史の授業で
第二次世界大戦以降の日本の近代化について
研究発表をするように教師に指名されたと言う。
クラスで唯一の「参戦国、日本の国民」だからだ。

「日本が着物をやめたのは、何時?」
いや、着物はやめてない。
明治、大正、昭和の半ば過ぎくらいまで
着物は根強い支持者に支えられていたのではないだろうか?
おいらんから始まって 日本のコスチュームの変革を
いっぱい見せてやる。大正時代のモガ、竹久夢二のイラストも
出してやる。日本髪の種類。

鹿鳴館時代について少し語る。
斬髪令について語る。

日本の近代化は世界大戦以降ではない
なんと言っても明治維新を抜きでは語れないのだと説明。
スペインの歴史の教師は もしかして知らないのではないだろうか....?


幕末の江戸について語る。
黒船の到来について語る。
フォン・シーボルトとその弟子について語る。
日本初の女医、イネ・シーボルト。

鎖国と徳川300年、最後の将軍について語る。

天皇制について四苦八苦しながら説明する。
エンベラドールという翻訳は正しくない、天皇家は
カトリックにおけるバチカンのような理解の方が正しい。
神道の総本山なのだから。現人神について説明して子供の目が丸くなる。

世界に例を見ない大政奉還の意味とフランス、ロシア革命の違いについて
ここを先途と熱弁をふるう。徳川慶喜の英明、民族としての潔癖。


清国とアヘン戦争、欧米の植民地への野望を説明している辺りで
私はついに胸がつまって涙が溢れてしまう。

第二次世界大戦の原因を話す。
ルーズベルトとチャーチル、核爆弾、ヤルタ会談
広島 長崎の後に宣戦布告したロシアについてーもうこの辺りになると
私は平静で居る事に苦労するー胸にさざ波が立つのだ。

ゼロ戦と特攻隊、天皇陛下の終戦のラジオ放送を話してやると
私はここで三度目に泣いてしまう。
この放送の後で 人々が路上にくず折れて嗚咽する様子を
いつかドキュメントで見た時から 私は必ず泣いてしまうのだ。

堪えがたきを堪え、偲びがたきを偲び、を娘とスペイン語訳する。

...やれやれ

この子が生まれた時から いつかこの日が来ると分かっていたけれど
ー学校の歴史の時間に 真珠湾を含む解釈について何か発表させられるってー
よりによって、人が38度の熱でやられている日曜日にかえ?

いやーーー大変でしたぁ...
日本史ダイジェストを一日で!

いきなり聞かされるあっちも大変そうでした 笑

江戸から昭和までの衣装の返還を絵に画いて、
北斎や写楽の全集を抱え、真夜中までかかって書いていたレポートを持って
なんだか勇ましく 娘は学校に出かけて行きました。

やれやれ....果たして如何に...








●2008年01月25日(金)

衣装 その三

ついでに衣装の管理も...

スペイン人ってお掃除好きで
家中ぴかぴかにしているのがほとんどの家です。
台所も天井までぴかぴか
お玄関もぴかぴか

この家では本読む人も居ないの?
というくらいに読みかけの物がだらしなく出ていたりしないし
電話の横に なんかのメモ走り書きがあっても良さそうなのに、
無い。

生活臭がしないくらいに きちんと片付いている家というのが
普通。

たまーーーに、うちみたいにメモが散乱している家が
100件に一件くらいでは あるかもしれないけど
大概の家は、デパートの家具売り場みたいに片付いている。

そういう国民性のフラメンコは
衣装もきっちり洗ってアイロンして
コロンなんか振りかけて丁寧にしまってあります。

楽屋でもハンガーに掛けただけでは心配で
家からシーツなんか持ち出してきてカバーまでしておく。

私はプロデビューしてから
こういう先輩のお姉さん達に囲まれて
なんとなく 衣装っていうのは
踊り手の命なのだから 
こうやって大切にするものなのだな、と
悟ったような気がします。

踊り終わって 楽屋で脱ぎ捨てて 
それを踏んずけちゃうなんていうのは 勿論あり得なくて
裏返しにして汗を乾かして 始末しておく。

花やイヤリングもお菓子のカンに大切に整頓して
いつでも困らないようにしてある。

発表会で時々私が驚くのは
平気でマントンでも
衣装でも 床にどさどさっと置いておいたりする
子達が居る事。

お姑みたいですが
あれは駄目ですよ。

昔の踊り手は あの気の遠くなるようなバタデコーラの
木綿のフリルに糊付して
アイロンを当てて管理していたくらいなのですから、
ポリエステル時代の私達は
せめて丁寧に 大切にしましょう。

あの素敵なミラグロス・メンヒバルは
髪飾りなど手作りしていました。

何の変哲もないようなプラスチックの飾りグシに
ビーズで図を描いて一つずつ工作して接着剤で留めて行き、
それはきれいな花櫛にしていました。

イヤリングもお揃いの図柄で作っていましたね。
昼間お家にたまたま遊びに行ったりすると
こういう手芸をしていました。
あの素晴らしい、華やかな踊り手のミラグロが。

小言が言いたくて書いた今日のつれづれではありません。

フラメンコと言う伝統芸能の
その楽屋がどんな伝統と習慣で営まれて来たのかも
知って欲しいのです。

ビセンタの美しく結い上げた銀髪と
それはどこか通じる スペインの女性の
きりりとした清潔な潔癖な、女性らしさ
古き良き時代からずっと引き継いで来ている
この国の女性たちの あり方なのです。






●2008年01月22日(火)

カルメン・アマジャの衣装


カルメンと言えば 衣装。
この人の衣装が凄い。
いつでも 最高級の衣装しか身につけない。
お抱えの衣装製作家がいて この人を全世界に連れて行く。
まるで姉妹のように親しく傍に置いたという話しです。

誰が言ったか?
この衣装を作っていたご本人のビセンタから聞きましたよ。

 私がスペインに渡った80年の暮ごろから
フラメンコで有名なトリアーナ地区に住み始めたのですが
そこのお二階に住む家族のご主人のお母さんというのが
カルメン・アマジャの衣装担当だったのです。
偶然です。

私がその頃は自分の衣装は全部手作りしていたのですが
ここの二階の家のミシンを借りていました。
スペインに渡ったばかりでまだ家財道具も持っていなかったし
ミシンなんて更に留学生には 最後の買い物というものでしょう。
それで ことこと足踏みミシンをかけていると
よく傍に来て、どんな衣装にするの?なんて
話しかける銀髪の美しいお姑さんで
洋裁が得意なのだというのです。

六枚はぎね、とか タイトの袖に脇下に三角のマチは入れるの?
なんていう本格的な質問が返ってくる。
もっとこうしたらどう?
ここにこんな切り替えは?
なんていうアドバイスも堂に行っている。

ただの洋裁好きのおばあさんではないな、と思っているうちに
あの天才バイラオーラのお抱えだったと知るに至るわけです。

それからはもう、カルメンの衣装のスカートの裏に隠された
縫い目とか 一枚仕立てに見せて実はいくら回っても太ももがあらわにならない 仕掛けとか、沢山の秘密の裁断と縫製を
楽しく楽しく聞いたのでした。

思えば あの初期の頃の何年かは
本当に新鮮な驚きに満ち満ちていて 幸福でした。

今はこういう老婦人は少ないけれど
この人は銀髪を首筋のところでマゲにしていて
フラメンコの踊り手そのものの品の良い髪をいつもきちんと
していました。昔のスペインは こういうご婦人で溢れていたのです。モーニョというあの髪型はとても女性を気高く美しく見せます。
昔のおばあさん達は 今みたいにジャージ来てその辺に出てこない。きちっとモーニョを結って クラシックな服をアイロンびしーーーーっとかけて着てましたね。

なんていうか古い時代の良きスペインの主婦は
こうだったのだなと 理解できた最後の年代だったなと
今だから思います。

昔の踊り手はとても身だしなみがよくて
今みたいにポリエステルの無い時代に
あの延々と続くフリルの波をアイロンかけていましたとさ。
気が遠くなるような 木綿の糊付したバタデコーラのアイロンです。

舞台衣装もお金を惜しみませんでしたが
仕事に行く時もどこの令嬢かというような服装で行きます。
一分の隙も無い格好で フラメンコのアーティストは仕事に行ったのでした。

続く...


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