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2008年04月のセビリア発信・つれづれ草
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●2008年04月29日(火)

イエズス会士

一ヶ月くらい前でしたか
グティエレス神父について書きましたが
この方はアンダルシアもアンダルシア、ヘレスの出身なのです。
あの街中の人がブレリアを踊れてワインを愛し、生ハムを片手に持っているような錯覚の起きる街。

こういう街からあのような勤勉が萎縮するかも知れないほどに勤勉にして志操溢れる、感知と理知の力が漲るような
芸術家気質の上に学者で 生き生きと深い洞察力で文化の
根本を追求する人が世に出る、というのが奇跡のようです。

これもスペインなんですよね。

だいたいにイエズス会っていうのは 優秀な人ばかりの気がします。信仰の力と言えば一言で済んでしまいますが
本当に博学です。

スペインっていうのは このように芸術と学術の霊感溢れる
勤勉な人を輩出するかたわらで、驚くような無知で傲岸な人もたっくさん出します。中間にはいい加減で厚かましい、人を騙すような人が またこれも沢山。

日本が例えば ほとんどの人が金銭にきれいだと言い切れてしまうのと同じくらいに ここは逆です。
子供の頃から よく人の物を盗る。
良家の子女でも 例外なく凄い子が多い。

なんなのかなぁ、と思いますね。
これがスペインなんですよね
何年居ても 慣れないですね
すぐにどういう事になるか カンは働いても。

両極端の人を出すけれど
中間層は 普通の人かというと
なんか適当な人がごちやまん....

楽しい国ではあるけれど
その楽しさのツケは すぐに回ってくる。

電気屋が入ると 水道を壊していく。
水道屋が入ると 電気を壊していく。
庭師が来ると なんだかヒューズが飛ぶようになる。
もぐら叩きみたい。

こういう毎日の向こう側に
グティエレス神父のような人が 輝きに満ちて存在する。

ああ、なんて国だろう!

●2008年04月28日(月)

みんな利口って....

建築学を教えている大学教授で
日本通にして驚くべき語学の達人と知り合いになった。

日本語も堪能なようだけれど
中国語を始めとして10ヶ国語って驚きますよね。

言語の場合、どこまで操れて「できる」て言うかが
まずありますね。

まずい立場になった時に正攻法で弁舌逞しく切り抜けられるか
友情が危機に瀕している時に 爽やかなユーモアで救えるか、

つまりこういう高度なレベルを指して始めて
何々語を話すって言えると思うのだけど
ここまでのレベルに10の言語が到達できるかな?

何となく疑問が残るのですが
まぁ、寸暇も惜しんで勉強する人は相当いいところまでは行けるのかも知れません。

日本には年に三ヶ月住んでいるそうなので
日本の文化と社会にも詳しい。
それで 激しい情熱を傾けてスペインと日本の比較文化論を
お話しいただいたのだけれど
曰く
「スペインはいい加減でバカばっかりだから
どんなに適当にしても平気でいられる。
けれども日本はみんな利口な人しか居ないから
全然ごまかす事もできないし いい加減な事をするとたちまち糾弾されてしまうから嫌だ」ですって。

「ああ、今日はやる気無いって日があるじゃないですか
医者でも教授でも そういう日はある。
そうしたら適当にやって帰っちゃったりしても
誰も追跡しないし うやむやにできる。
けれども日本はそれができない。
4月23日の午後4:21に あなたは一体どうして教授館に居なかったのか!などと追跡されてしまう。

とてもやれたものではない....」ですって。

え!?て驚いてしまいました。

「それは 学問の最高学府の先生とか
命を預かるお医者が 適当に診療を休んだり 授業を放り投げたりしてはいけないですよ」と反駁したのですが
うん、そうだね、とは言ってもらえなかったのです。

いやーーーーー驚いちゃうな、こういう方からこういう溜息が漏れるって。

やっぱり日本的倫理観をここで求めると
聖職者、イエズス会士くらいしか無理なのかなぁ。

つくづくと考え込みました。

●2008年04月22日(火)

低血圧

運動をしているプロの場合、血圧が高いよりは低い方がいいらしい。心臓の負担を考えるとエンジンがかかりにくい人のが
かかってから後の心配が無い。

知り合いのピアニストから血圧がとても低くて
演奏に差し障りがあるのでコカコーラなどで
テンションを上げてから稽古しているのだけど
どうしたらいいかしらという相談が来た。

あらゆる芸術がみんな同じなんだなと益々
感心したのだけど、踊りだけではなくて
演奏家もやっぱりエンジンがかかりにくいのは
辛いらしい。

私も始めるまでがちょっと辛いけれど
午後から稽古にしようとは思わない。
朝の一番からやらないとだらけるので嫌だ。
午後は練ったり、工夫したりするのにはいいけれど
昼過ぎの3時なんていうそれでなくても怠惰な時間から
猛烈に何かをするというのは避けたい。

やっぱり朝だ。
朝をちゃんとマネージしないと一日がだれる。

ピアニストには 続かないかもしれないけれど
自転車を五分は漕いで レッスン始めては?
と提案した。

あの自宅に置く自転車というのは
場所も取るのに 意外と続けられないものらしい。
でも 音楽家でそれでなくても運動不足になるような傾向にある人は 薬だと思ってやるべきではないかしら?
飲み物なんかで上げようとするのは 正攻法ではない。

それは散歩に走りに、とやればいいけれど
雨も降るし 外出だから着替えるし
割と面倒だ。

究極の節約はやっぱり自宅の自転車なのではないかしら。

物事って理想から始めないで
最低限度を目的にして まず続けるっていうのが大切だ。

もうこれ以下はないんだよ、と自分に悟らせる。
ここから広げるしかない。

最低限度をクリアーするのが いかに困難かは
始めてみればすぐに分かる。

血圧が下がってくるたびに五分漕ぐ。
多分朝に二回はやるのではないでしょうか。
午後に一回ですね。

八時間も10時間も弾く人は
合計15分くらいは 楽器以外の事をしないといけない。
これ以下は無い。

どうかな説得力あるかしらん。

●2008年04月21日(月)

著作活動

どんどん出版する人もいるけれど
気楽なエッセイと違って 日本の歴史本は
骨が折れる。

何か間違ったら大変だ。
それから出典をあきらかにしないといけない。
これが凄くめんどくさい。

そんなこんなで全20章の私の本は
下書きばっかりで とてもお清書に至らない。

例えば昨日、清書しようとした=スペイン語を推敲する意味

人口について どこから取った数字か、というのを明記しないといけない。経済白書とかそういうの。
ところが2008年の数字なんてまだ出ていないので
実質は2006年発表の数字だ。
早く出しちまえばいいけどーとやくざっぽくなるー
ぐずぐずしていると数字が動くぞ!

ふえーーーーめんどくさい。

それにこれは 住民票による数字で
外国人の父親が日本人のなんたらかんたらは含まれていないとか
外国に住んでいるのは何人だからこれは含まないとか
そういう微妙なところは 入れるのか入れないのか、ていう問題がある。
さらに 入れた入れないかをせめて書かないといけない。

私が目指すのは 数字は大雑把で記憶しやすく
記述も詳細だと覚えにくいから簡単にしたい。

そうするとやたらと本文に※ばかりつけて
巻末にだらだら言い訳する本になるのかなとか

そうなのです。ここのところを考えているだけで昨日は
終わってしまいました。
こんなんでいつできるだろうか。溜息。

でも絶対に今年が終わるまでには完成させたい!!
見よ、岡倉天心を!
ああ、だらしない友繁晶子はまだ書けない....涙

文学部の先生のパブロに「毎日時間を決めて必ずやるようにしないと駄目だよ」と言われたばかり。
それで朝の筋トレの前の2時間にしようと決めたのに
月曜の今日、すでにできずに終わってしまいました。

なんでしょうねぇ....ホント 愛想が尽きるぜ。
さて、本業も駄目にしないように行って来ます
トレーニングだけは欠かしては人間失格です。

皆さん、良い週初めを!

●2008年04月19日(土)

岡倉天心

ここ一週間くらいのセビージャの集中豪雨のすさまじさと言ったらない。一日降り続いているわけではないのだけれど 裏から崖でも切り崩れたか、というような音で降る。
早朝に目覚めてしまうくらいの音だ。
それからまるでスペイン人のようにけろりとして晴天になり、
安心していると又突然空がかき曇って大雨になる。

今朝はこの激しい雨音で起きてしまって
最近知り合った建築学の教授で親日家のホセ・マヌエル・カベサ先生の研究レポートを読むことにした。
出身校が上智で英語科だからっていうんで(苦痛)英語の研究書が送られてしまって、今度お会いした時に絶対に感想を聞かれるから必読なのだ。

アーネスト・フエノロッサという明治政府が招聘した外国人教師がテーマの書だ。この人の弟子に岡倉天心が出てきたので
私は岡倉天心に道草してしまう。

高村光雲(彫刻家)が上野の美術学校で教鞭を取っていたときに
確か校長の岡倉天心が苦境に追いやられて辞職する時に
当時の美術学校の教授陣がほとんど総辞職して後を追う事件があったーウル覚えですから何か間違っていたらご指南くださいねー

それからずうううううっと岡倉天心が心にかかっていて やりそこないの宿題のように気になって苦痛だつたのだけれど
どうやらちゃんと勉強しないといけない時期にかかってしまった気がする。というのも最近読んでいるグティエレス先生の日本美術史にも出てくる。

今朝の豪雨の中、ちらっと拾い読みして驚いたのには
この人は偉大なる日本思想家なんだな、と言う発見だ。
色々と心打つ名言を残しています。
以下の文章の民族としての激しい情熱と尊厳に
私は 今朝は ああ早くスペイン語日本史を書かなくては!
と思ったものです。

........................................

「すべての民族は、その民族自身を世界に現はす義務を持ってゐます。何も現はさないといふことは民族的な罪悪と言ってもよく、死よりも悪いことであって、人類の歴史において許されないことです。民族は彼らの中にある最上のものを提出しなければなりません。」

日本への回帰(第38集) (国民文化研究会) より
.....................................................


岡倉天心(1863−1913)は、急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治という時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家、美術運動家として近代日本美術の発展に大きな功績を残す。日本画改革運動や古美術品の保存、東京美術学校の創立、ボストン美術館中国・日本美術部長就任
自筆の英文著作『The Book of Tea(茶の本)』を通して、東洋や日本の美術・文化を欧米に積極的に紹介するなど、国際的な視野に立って活動。
  その晩年、横山大観らの作家達を指導し新しい日本画の創造をめざした。
............
アーネスト・フェノロッサ 明治時代 お雇い外人で来日したが、助手の岡倉天心と共に古寺の美術を訪ね、日本美術を評価し、紹介に努め日本人の国宝に対する意識が変った。又、東京美術学校の設立に尽力、仏教にも帰依し日本に葬られている) 

●2008年04月18日(金)

泥棒 

昨日は忙しくて 泥棒どころではありませんでした 笑
すみません、予告だけで。

さて、スペイン事情 泥棒の巻きです。

先々月だったか 一ヶ月でうちの近所が七件も
泥棒に入られました。
これが すぐ裏のフランス人の夫婦で
母国に帰国するので空港に車を走らせている最中に
泥棒に入られたと連絡が入ったというので驚きです。

いつどこに出かけるかまるで知っているかのような手口に
国家警察では 実は犯人グループはプロの窃盗団なのだと言います。

え!!??

確実に盗み出すために 寝室の窓など数箇所に盗聴マイクを仕掛けてその家の金庫の場所、現金の状況、宝石類などつぶさに調べて 例えばその家族が外国人なら本国に帰国する、旅行するなど戻って来る予定のない確実な日に入るのだそうです。
電化製品などには目もくれずにまっすぐ現金に直行。

主に東欧から来る知能犯罪グループなのだそうで
いろんな機械や重装備のドアも難なく開けてしまう技術をもって入り込んでいるそうです。
まるでスパイ映画まがい!!

益々家庭内は日本語!を強化したいところですが それにしても
こんな窃盗団に太刀打ちできるでしょうか....憂鬱。

先週聞いた話では、私の極親しい知人が真夜中に
怪しい口笛を聴いたのではっとして窓に近寄ると
ズックのかばんを背負った黒い服装の男性が 闇に紛れて
向かいの家にするりと入ったというのです。

すぐに警察に知らせたのですが
パソコンなどーそういう商売の家ーごっそりやられた後ということでした。この手口は
一人がまず鉄格子を破る-口笛で知らせるー
次の男が中の物を盗むー口笛で知らせるー
三番目の男が遁走する。

段階ごとの手分けなんだそうで
この段階の間は10分くらい空けて様子を見るんだそうです。
合図は まるで少年達の夜更かし遊びみたいな密やかな口笛。

後者は南米人
前者はルーマニアなどの東欧のプロ窃盗団。

最近、お手伝いさんや、庭師が南米人というのが増えて
これが窃盗の手引きとして内偵と言うケースも多いらしいです

人種差別になりかねない発言ですが
実際、私も庭の生垣など人手に頼りたくないなといつも思っていました。
何ヶ月かの家のリフォーム中に
家の様子や家族の行動をしっかり覚えられて
大工が犯人だった事が 私の家でも過去にあり、
しかも逮捕に至らなかった事がありました。

それは、
二日前に入れ替えたばかりの新しいドアの「鍵」で入って
犯行に及んだのでした。新品のドアの合鍵など
通りすがりの泥棒には作れないわけです。
現実として明らかなのですが 逮捕できなかったのです。
まだ そこいらに放し飼いです。

夕べ、激しい豪雨の中で口笛を聞いたので
ああ、雨の日は人が出てこないからもってこいなのだろう、と
夢の中で思って、力ない朝の目覚めを迎えました。

スペインの法律には死刑がないので
ヨーロッパと南米のあらゆる犯罪者が入ってくる事になりかねません。
ちょっと頭の痛い社会情勢です。

●2008年04月17日(木)

泥棒について

フェリアなんだから一週間はお休みです。
学校も王立舞踊学校でさえ この間は休みです。
それでちょっと更新が間遠になっただけで
「最近、更新されてない!!寂しい、なんか書け!」
というメールが来ます。
笑ってしまいますよ。
毎日むさぼるようにして読んでいるのに
自分は何一つ書くわけでもないのに
人がちょっと忙しくしていると この叱咤。
まったくねぇ.....

というわけで 私は今日もこの薄情なる読者のために更新します。

ところが 今すぐ稽古に行かないといけないので
本題は これから六時間後です
ご期待下さい...てほどの話題でもないか 笑

●2008年04月16日(水)

ビラール・ロペス その二

このスペイン舞踊史に輝く踊り手は
簡単に一言で言えば アントニオ・ガデスの師です。

アントニオ・ガデスはこの人に見出されたとされています。
ガデスは亡くなる少し前まで それはビラール・ロベスを敬慕していたようでした。

マリオ・マジャも新聞に自分の師であると言ってましたから
この舞踊界のマドンナの果たした功績がどのようなものか垣間見ることができると思います。

1930年代の後半から40年と言う時代は
スペインは内戦が終わったばかりの極貧の時代なので
世の中は疲弊していてお金もなく
その日に食べる物にも困っていたような時代でした。

私がずっとソリストで踊っていたセビージャのタブラオ
エル・アレナルのオーナーが
クーロ・べレスと言う
ガデスの前の時代にビラール・ロペスの相手役だった踊り手です。
引退して夫婦でタブラオを経営していましたが、女主人が アントニア・ロドリゲスという、やはりビラール・ロペスの舞踊団のソリストでした。
夫婦で 晩年もビラール・ロペスがどんなに素晴らしかったかという昔話をよくしてくれました。

舞踊団員は 全員 ホタ、クラシコ、フラメンコと
スペインの郷土舞踊を習得しなくてはならなかったのですが
こういうレッスン代は みんなビラールが払ったと聞きました。
なかなかある事ではありません。

舞踊団員の数も多かったと思うし
一人一人に習わせるのも大変だったと思います。

あの時代に沢山あったスペイン舞踊団というのは
ホタ・アラゴネッサで粋な若衆の踊りと
愛らしい北部の乙女の踊りを見せたものです。
今では こういうプログラムは中々組めないようですが
それは素晴らしかったです。
私はガデス、マリア・ロサ、グラン・アントニオの舞台で
このようなプログラムに魅せられました。

スペインは舞踊の宝庫なので
それぞれの地方色の豊かな民族衣装と
華やかな舞踊のプログラムは とても喜ばれました。
今の黒と白みたいなモダンなフラメンコも素敵ですが
古い時代のプログラムは 郷土色の濃い、血の熱さが伝わるような、なんとも言いがたい素晴らしい踊りでした。
カスタネットの名人が 必ず沢山出てきて圧倒されました。

こうして、
50年代から60年にかけてのスペインでは 有名な舞踊団が林立していました。
これらの基礎は、ビラール・ロペスとその姉の舞踊団が開拓したと思います。
忘れてならないのは、あの素晴らしいエル・グレコもこの舞踊団に居たという事です。(この世の人とも思えないくらいの男性美に溢れた、彫刻のような美男で、あの国立舞踊団のプリマ、ローラ・グレコの父です)

私は あの時代にここに居たかったです。
今のフラメンコに出会えなかったとしても
あの素晴らしい時代のアーティスト達と一緒に働きたかったです。

ああ、ビラール・ロペス.....

●2008年04月15日(火)

ビラール・ロペス

三月のある朝、BARでコーヒーを飲もうとして
朝刊にてビラール・ロベスの死を知った。

とても落胆して元気がいっぺんになくなった。
ああ、ついに黄金時代のアーティストがみんな逝ってしまった。
この人に聞きたい事がいっぱいあったのに...

Pilar Lopez Julvez
1912 San Sebastianに生まれる(2008年3月25日逝去)
その姉のLa Argentinitaとともに世界中に名声を馳せる。

この天才姉妹はフラメンコとクラシコの輝かしいスペインの
舞踊史になくてはならない存在だ。
拙著、フラメンコかつてーに詳細しているので
是非この機会にこの偉大なアーティストの死を悼んで
紐解いてみてください。
フラメンコの歴史の中で初めてシギリージャを踊ったアーティストとされています

95歳の長寿を全うしたのだから
これ以上どうして欲しかったのかと
自問してしまうけれど
私は今一度若返って 今一度踊って欲しかったです。
1930−40年代の黄金のアーティストの時代に
ほとんど外国公演に明け暮れた人です。
アルヘンテイニータの類稀な美貌とグラシアに溢れた
舞踊は伝説の域に達しています
ビラール・ロペスの素晴らしい才能と創意は
今も多くのアーティストが鮮明に記憶しています。

私は先ごろ亡くなった舞踊家のアントニア・ロドリゲスに
それは厳しく育てられ、−この人はビラールの舞踊団のソリストでしたー特にシギリージャは毎日の舞台をチェックされて
夜遅くまで稽古させられたものです。
ですから私はビラールの直系のシギリージャをいただいた
孫弟子に当たります。

タブラオがはねた真夜中の3時近い舞台で
何回もその晩のシギリージャを直されて
心がしいんと静まって まるで何かの儀式のように
誠実に工夫を重ねたあの時代が
ビラール・ロベスへの敬慕と混じって
私の修行時代の思い出として
何か美しくよみがえります。

ふっと悲しくなって 何故?と思うと
まだこの人の死とアントニアの死を重ねて悼んでいる自分を発見します。


●2008年04月12日(土)

フェリア

恒例のスペイン3大祭りだかなんだかの四月の春祭りが
先週の日曜の夜中から始まっている。
毎年、雨に祟られない年がないと言われるフェリアだけれど
今年は すさまじい開幕だった。

もう雨というか豪雨が昨日まで続いていた。
夜中目が覚めるくらいの激しい雨が
フェリアの遊園地、模擬店のような1000はあるカセータを
打ちのめす。道はドロだからもうその惨憺たる様はニュースを見なくても明らかだ。

どんなに雨でどろんこでも出かけるスペイン人達も
さすがに足が向かないと見えて
これにビジネスを賭けた人達は大変な思いだろうと同情する。
大昔にうちでカセータを持ったときでさえ、一連200万円したのだ。あれから17年は経つから値上がりを勘定してみると
みんな大変な損害だろうと思う。

フェリアというのは個人がカセータを持って山盛りの食べ物と
コックやバーマンを雇って自分の家族や友人を一週間もてなす。

その他に営利目的のカセータも沢山ある。
街のBARがフェリア会場にカセータを出したりする。

もともとは馬の売り買い、商談をさりげなくする目的の
見本市だつたのだから 今でもお得意を招いて楽しい一週間の接待をして つつがなく商売を継続、拡大、危機脱出をする。
そういう側面もある。

日本人が見れば なぁんだ、みたいな小屋がせいいっぱいの飾りつけをされて1000件くらい軒を連ねる。昼夜分かたずにぶっ通しでやっている。スペイン人の血の濃さとしつこさを思い知る週間だ。

午後の六時に繰り出して行って、翌朝の10時まで 飲めや歌えやの大活躍だ。それでまたその晩も出かける。
物凄い活力だ。
道がドロドロにぬかっていても
白いぱりっとアイロンのかかったフラメンコ姿で出て行く。
ベビーカーを押しても出て行く。
本当にこういうことには骨身を惜しまない民族なのだ。

あんまり衣装を持っていて辟易としている紺屋の白袴の私は
娘にお祭りの衣装を誂えてやらない。
本当にフェリアに行くかどうかも分からないのに
他の家の親のようにわくわくと買ってやる気がしないのだ。 

うちの娘はそれでいて
やたらと目ばかり肥えていて好みがめんどくさい。

学校の友達がみんなして着飾ってフェリアに繰り出すという日、
なんだかしょぼいワンピースで行こうとしていたので
さすがに待ったをかけた。

仕方ない....
鏡の向こうに、のアレグリアスの衣装を出してきて着せてやった。
ぴったりでどこも直しがいらない。
おやおや....

これは、ボディがマントンでできていて、フレコがふくらはぎまでくる一点だ。私はその下にバタデコーラをつけて踊ったけれど
娘にはボディだけ。
こうするととてもおしゃれなワンピースになる。
特別誂えのマントンで仕立ててあるので衣装としてもこの上なく上等だ。
まぁ、ママの借り着でもこれならいける。

大勢の生徒に何年も何年も結ってやったように
娘の長い髪を美しいモーニョにしてやった。
花と櫛で飾ったら 娘が合わせ鏡で見ながら
私を見直して歓声を上げた。

ポスターのママと同じに見える、娘がつぶやいた。

....やれやれと送りの車の窓から私の衣装が遠ざかるのをしばし眺めていると
通りの向こうから若い男の子達が口笛と歓声を飛ばしていた。

たまにはいいのではないかしら...笑

●2008年04月03日(木)

あの とろい人達

さて、過酷な学生生活が分かってみると
スペイン人を見る目が違ってきた。

まず銀行だ。
このとろとろと のろい人達
私の利用している銀行は住まいと全然関係なくて
車を飛ばして行かないといけない。
これには理由がある。
他の支店では 大トロで我慢ができないからなのだ
行くととにかく スペインとしては異例に早くアテンドしてくれる。何か少しこちらに落ち度があってもまあ やってくれる。
たったのこれだけの理由だけど
ほとんどの銀行が耐え難いくらいに トロイので貴重な存在だ。
車ででも行く。

ここの多分二番手に偉いチャリに聴いてみた。
ねぇ、あなたはどういう学歴なの?
私は五年制の大学の 経済経営学科を出たの。
おお、五年も大学行った?
ええ。

で、もう一度高校に戻ったらどうする?これで良かった?

いいえ、多分 高卒で公務員になったわ。銀行なんて最低よ。責任ばかり重くて 職能給だから毎月売り上げによって変動する。

へえええーーーーー・・?

支店の預金高、カードの売り上げとかそういうノルマを上げて給与に反映させるらしい。
これはきつそうだ。

銀行では高卒は?
採らないわ。みんな経済か経営学を出た人ばかりよ。

そうなの!!!
じゃ、あのオバサンも、あそこの窓口も
みんな数学と科学と物理を最後まで勉強して大学を五年も行ったのだ!?
じゃあ いわゆるうちの娘の学年の一番良く出来る子達みたいな感じか...それであのとろさ。

気位が高いのは高学歴もそうだけれど
割と上の方の家庭の出身でーここのアッパーミドル階級は なんで?てくらいに気位が高いのです。日本よりずっとですー
パパ、ママに結構甘やかされて育っている。

なるほどねぇ....
まずは スペインの社会の構成としての銀行の姿が少し見えた
昨日の私でした。

●2008年04月02日(水)

ラテン語とギリシャ語


子供を持つまでは スペイン人がどういう家庭生活をして
どういう学校生活をして 教育を受けて成長するのか
少しも分からなくて 漠然と日本と似たりよったりだと考えるともなく 思い込んでいた。

娘が学校に上がってから 色々と驚く事もあり
感心することもあり
私達も一緒に学んでいった。

スペインでは 中学を境に仕事に即必要な技術系に進むか
学業を続けるかに分かれる。
ほとんど高校生くらいでもう ペンキ屋とか大工とか電気工などになってしまう。
学業を選んだら、今度は高校に入る時に
弁護士 会計士、医者系のながーーーーーい学生生活を強いられる理数系か(これらの職業はきつい理数科目でずっと苦しむ)
文系に行くか決めないといけない。

うちの上の娘は 文系を選んだけれど これが物凄く大変なのだ。スペイン語のしつこい文法は勿論の事、ラテン語とギリシャ語が入ってくる。家では日本語、学校で英語、ラテン、ギリシャにフランス語、友達とはスペイン語で六ヶ国語に苦しんでいる。
これって いいんだろうか?
詰め込み過ぎではない?

試験になると阿修羅のようになっている。

下の王立舞踊学校と並行でヒーヒー言ってる娘は
長女みたいにきびきびしていないので
果たして高校生になって文系に進んだら
こんなに成績良くやれるだろうか?
ドロップアウトするのではないかと気になる。

スペインの学校っていいか悪いか分からないけれど
本当に真面目に勉強しないとどんどん落第させるので
気が抜けない。

私はここに生まれていたら無事 高校を終えられたかどうか自信が無い。何しろ数学と物理 科学でちゃんとできないと昇級させてくれないのだから。惨憺たる私の理数系科目を振り返ると
どう考えてもドロップアウトだったのではないかと思える。

ああ、日本で良かった....なんて
こんな母親って居るだろうか  笑

●2008年04月01日(火)

東洋博物館 その2

ここの所 ずっと日本文化の話題でフラメンコにあまり触れてなくてごめんなさい。
本場のスペインの動向っていうのも大切な事なので是非
読んで下さいね。

さて、東洋博物館ですが、ここにあるものは一個の茶碗を除いて
全部寄付だそうです。
それは神父様ですから うちの先祖の物ですとか
私のコレクションですとかでいただいたものばかりだそうです。

仏壇が二つもあったのですが
お位牌ごとなんです
私はこの仏様にお線香を上げてあげたいと苦しみました。
売ってないしねぇ....

きっと家族の絶えてしまった仏壇で
そのままスペインに残ってしまったのでしょう。
気の毒な事です。
私が居る限り お線香あげに行ってあげてもいいのだけど
お仏壇を一度お掃除してあげたいです。

ちょっとここの所取り込んでいるので
来週でも暇を作って是非 申し出てみようかと思います
なんていうか身につまされてしまいました。

中国の素晴らしい銀器もありましたが
これはここに住んでいた中国人で身寄りも無く
年老いたので寄付したいということだったらしいです。

私の着物のコレクションもいずれはそうなるのかな。
うちの娘達が絹の世話をできるとは思えないし....

異国に住むっていうことの意味をなんとなく噛みしめて
すこーーーーーし悲しくなりました。

でもきっと日本に居ても悲しいだろうなと思うのです
あの変わり方の凄さには着いていけないです。
私の心に残る 美しいお正月とか
そういう物は もうどこの世界に行っても無いのですもの
日本という元祖を筆頭に....

いけない、いけない、月曜から懐古主義になっては。
前向き前向き 前向きに溌剌と生きなくては!!



●2008年03月29日(土)

王立アカデミー訪問の巻き
ー東洋博物館ー

俳句のゼミで 金曜の朝早くに王立アカデミーにみんなでグティエレス神父の講義と博物館見学に行く予定だと言われた。

もうずっとグティエレス神父の連絡先を訪ねてぐずぐずしていたので ロドリゲス教授が 
「丁度いい、学生と一緒に講義にいらっしゃい」と言う。

またもや 俳句のゼミからついにグティエレス神父の日本文化の講義にお招きいただけることとなった。

目まぐるしいまでの人脈の速さだ。

ついに今朝、Japon y Occidente の筆者にして日本文化の権威、グティエレス神父にお会いした。
輝くような人格者で
ヘレス出身のイメージ通りの明るい性格のきびきびとした先生だった。
思っていた以上にダイナミックにして力みなぎるインテリで
とてもチャーミングだった。
多分75歳くらいと教授に言われていたのだけど 
きびきびした足取りとユーモアが絶えない語り口の軽妙さといい、いわゆる老人ではまったくなかった。
目が輝いていて曇りというものがなかった。
信仰の強さというか、人の理知の輝きに心から感動した。

1956年から15年間 日本に暮らし、
上智大学で教鞭もとられた。
在日中に美術の本を出版されいる。

スペイン語で書かれたものは

日本の文化全般についてのもの一冊
それを掘り下げた絵画とセラミックについての物が一冊
建築について掘り下げた物が一冊
侍について書かれたものがこの一月に出された。

私はこれを各二巻ずつ買い求めて
娘が独立する時に嫁入り道具として持たせようと思った。

先生の書かれた本のスペイン語が素晴らしい。

芳醇なワインのように良いスペイン語なのだ。

日本でもとかくに学者の書き物は 難解で国語としてはかなり劣悪だったりするものだけれど 
スペイン語でも勿論同じような現象がある。

優れた学者が必ずしも優れた書き手ではないのだ。

でもこの先生の書かれる物は 国語として一流の域に達していて
しかも 行間に溢れるような情熱と日本文化への限りない憧憬と尊敬とが暖かく息づいている。
本当に素晴らしい文章なのだ。

私はページを読み進む事ができない
なぜなら何度も後戻りして 味わってしまうからなのだ。

近年、こんなに心を打たれた事も珍しい。
素晴らしい出会いだった。

今日は学生も大勢いて 講義が三時間にも及んだので
後日 ゆっくりお会いしましょうと約束をして
走り書きのお電話番号を嬉しく抱いて帰路に着いた。

ああ、文化と芸術の道しるべとなる人々に幸あれ!
そんな敬虔な気持ちに打たれて帰りました。

皆さんも 良い週末を!
一週間のご褒美として 楽しく過ごして下さいね。






●2008年03月27日(木)

スペイン語の俳句って....

昨日は久々のセビリア大学構内で懐かしかった。
まずその大きい事、遺跡から出てきた大理石の像なんかが
構内のあちこちに立っていて 古いヨーロッパの学府っていう雰囲気がいっぱいだった。
パイプをくゆらしながら廊下を通り過ぎて行く教授、
お菓子の小さい袋をぶら下げてクラスに行くみたいな女子学生、
質素で粗末な服装にめいっぱいおしゃれしているみたいな
若い人達。
試験やつれしていて くすんだ子達....

ああ、そうだな、こんな時代があったのだな、と思う。
もう一度学生になってスペイン史でもやってはどうだろうと
ちらっと血迷ったけれど、ラテン語とギリシャ語を避けて通れないのだと思うとぞっとしてしまった。

スペイン語の俳句は 中々難しそうに見えた。
日本語には冠詞がないから 5,7,5も楽に作れる。

los hombres など、冠詞がついてしまうと
ただの 「男達」の二語で済むところが もうこれだけでめいっぱい字数を食ってしまう。
この辺の工夫でとても苦労していた。

みんなが作って、詩としての音に苦労している中、
逆にこれを本物の日本語で俳句にする作業を
ちょっとしてみて 私も辛酸をなめた(笑)

日本語には季語があるから 
春だの秋だの言わないで済むというのも
みんなでテーマにしたけれど 
こういうものをスペイン語で確立させるのは大変だなと感じた。

来週、ヘレスで俳句の会があるから出席して欲しいと言われたのだけど とても行かれそうにない。

ヘレスでは活花展もやったらしい
折り紙の人気など物凄いらしい。
学生達が中心になって 日本の文化を広めようとしている。

私財をなげうっても、と言う感じがするのだ。
この熱意が何に由来しているのか
もう少しこの人達とお付き合いしてみないと分からない。

私のわくわくスペインは どこで買えるのかと言われた。

ロドリゲス教授にも励まされたけれど
学生達も私の頭にある宿題「日本」のスペイン語出版を
一日も早く世に出して欲しいと又 言われてしまった。

本当に出版社がちゃんと出してくれるだろうかという危惧があるのに 20章から成る大作を書き上げるのは苦しい。
自分の気の向くままのエッセイと違って
まちがってはいけない数字などを挙げての地理歴史など
推敲に苦労するのは目に見えている。

うーーーーーん、お尻に火がついて来たって感じです 泣







●2008年03月26日(水)

明日は日本文化大使で 一句...

セビリア大学で日本文化の講義が盛んらしい。

今月の初めに 九日間で36時間の日本文化の講義があったのだが、定員を上回ってウエイティング・リストまで出たという。

この一日四時間の講義の中に 日本とフラメンコの関係という
レクチャーも含まれていたというから興味深い。

懇意の教授で もと上智大学にいらしたロドリゲス教授に
お電話してご無沙汰のお詫びを告げると 今日是非 会いにいらっしゃいと言われたので 車を転がして
ずうっと借りっぱなしの
支倉常長の資料をお返しに行った。

この先生は 井原西鶴の研究家にして権威で
日本の古典に詳しいばかりか 村上春樹などの作家のものも
翻訳していらっしゃる。

明日、セビリア大学の歴史の講義の中で俳句をされるそうなので
是非、授業に来るようにとお招きいただいた。

受講の学生達は スペイン語で俳句を作るのだそうで
私には 日本語で作ってもらいたいという要請があった。
俳句ねぇ...

天高く、空に柿の実 あかあかと...なんていうのを作ったのが12歳の時だ。
あはは、あれ以来だなぁ、大丈夫かしらん
学生や先生の俳句を直してやって欲しいなんて期待されてしまったけれど 直せるかナァ...
逆に添削されちゃったりして(笑)

セビリア大学は
あのカルメンで有名な 元タバコ工場だった立派な建物です。

私は一時血迷って ここに再度入り直そうとして
学科に通っていたことがあります。
夜はタブラオで踊って 
朝は暗いうちからこの大学に通ってまして 
それはもう冬なんざ 星座が見えるくらいに暗くて
天井の高い壮麗な学府の
寒い事といったらなかったです。

いやだなぁ 俳句上手くできるかしらん。
ロドリゲス教授の期待に応えられるでしょうか!!

では、スペインの明日、皆さんには時差で本日
セビリア大学でのにわか助手の奮闘を応援していて下さいね
やっぱり 春の句かな....そわそわ







●2008年03月22日(土)

晴耕雨読

セビージャのこの時期の寒暖の激しさといったらない。
毎年必ず 風邪を引いていて真夜中に街を徘徊できない。

言わずと知れたセマナサンタのクライマックス
木曜のはりつけと金曜の復活は
見逃せない。
あの原始フラメンコのサエタが聴ける。

木曜は大雨が降って雷もしきりだったので
沢山の山車が教会から出なかった。
テレビのニュースで大の男がみんなして泣いているので
娘と二人で呆然と眺めた。
セビージャの各教会に二対ずつあるので
全部で116の山車が出る。
これが確か15キロくらいの行程で
ナザレ人などに扮したお付きというか山車の露払いというか行列隊が一つの教会だけで1500人も居たりする。
これが裸足で受難するのだけど
これがやれないと言って男が泣いているのだ。

日本でも男性は泣くっけ?

なんだか もう分からなくなってきた。
命賭けてるっていうか これに賭けているのだ。

他の物堅い周辺諸国の友達に語ったら
驚いていたから やっぱりスペインは特殊なのだろう。

私は風邪が酷いので とても真夜中に五時間も六時間も
山車を見に行けないので 長女が友達と連れ立って
出かけて行った。

明け方に帰宅を告げに来て 少し寝てから
昼過ぎに言うには
「もう死にたいくらいに辛くて 夜は自分はもたない」ということだ。もうこういうことになると異民族としか思えない。
みんなは一晩中 起きていて朝の11時まで山車を追いかけていたという。
うちの日本起源の娘は 午前五時までしかもたなかったと告白。

11時まで練り歩いた挙句にそのまま長距離バスでウエルバまで
デートに行った子もいたという。

つくづく宵っ張りな強い国民だと思う。

この後、フェリアがまた24時間体制で一週間なのだから
祭りも相当好きでないと続く物ではない。

ああ、風邪気味でこんなのに出かけたら一週間は寝込んでしまう
私に違いない。





●2008年03月20日(木)

Padre Gutierrez


娘がずしりと重い美術の本を二冊も抱えて帰って来た。
一つは
japon y Occidenteという題の
緒方光琳だの北斎だのの絵が沢山入った
とても立派な本だ。

どれどれと作者の名前を見ると
イエズス会士で 上智大学の元教授の
Fernando Garcia Gutierrezとある。

ああ、これはあの有名なグテイエレス神父様ではないかしらと
胸がざわめいた。

私は在学中に この先生に面識があったように記憶している。
少なくとも Padre Gutierrezと言う
お名前は 耳に馴染むほど聞いている。

とても懐かしく、どういうご本を書かれたのかと
読み始めてみた。

これが一読して始めのページから非常に感動した。

この先生はヘレス生まれのアンダルシア人なので
その母国語で書いていらっしゃるから
多くの英語からの翻訳ものとは違って
行間から溢れるような情熱が伝わってくる。

イエズス会士の博識は有名だけれど
日本の文化をこれほどに研究し尽しておられるのに
まずは驚いてしまった。

美術について語るときに
歴史そのものと
その時代の権勢や哲学というものに余程詳しくないと
関連付けができない。

Padreの日本の歴史に対する正しい把握と知識
日本人の侘び 寂び、についての理解と洞察
本当に頭が下がる思いだ。

これはまさしく
第一級の美術評論家で歴史研究家のお仕事だと強い感銘を受けた。

それにしてもどの行からも 日本の文化への限りない愛着と
心からの尊敬に満ち満ちた文章は
とても説得力に富んでいて
ああ、このような立派な人が日本に長く住んで
誠実な日々で研究を重ね
そうして200ページ余りの立派な本をスペイン語圏の人々に
出して下さったのだなと感概深い。

文章は決して難解ではないけれど
浄土宗の出現などにも詳細しているので
中々小説を読むようには 先に進めない。
それでも芳醇な素晴らしいスペイン語は
これだけでも素晴らしく、何重にも味わい深い。

読破しましたら
是非、スペイン語の方でご紹介したいです。
素晴らしい本です





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